岡山県立倉敷工業学校
創立時の校旗
校歌誕生
小坂経男

五万観衆の喚声がとどろく。センターポールに緑の校旗がはためく。折しも沸き起こる校歌吹奏「水島灘の沖行く白帆も・・・」。大甲子園にこだまする勝利の賛歌。聞く度にいいなあと思う。終戦の翌春、戦い疲れた若者もようやく立直り、学校も活気を取戻した二十一年春、校長の直江虎正先生が校歌をと主唱。これを受けて直ちに始動。山陽新聞の金平東京支社長(故人、後の同社文化局長。機械科卒雄彦君の厳父)に面談した。東京で自由に動け、且つ新聞社というバックのあるこの方が最適と考えたからだ。多忙な氏も主旨に賛成して快諾。天下の一流をと先ず西条八十を説き、更に八十先生が早慶でゆくかと「若き血に燃ゆる者」の作曲者堀内敬三氏に曲をお願いしてくださる。氏も音楽評論家として名声高い人。これはえらいことになったと躍りあがった。超一流の校歌誕生だと。この思いは今も変わっていない。さて、今頃なら作者の現地視察となる訳だが、交通事情の極端に悪い頃。
 その代わりに学校の環境を詳しく知らせよ、に応えた報告によって生まれたのが、「白帆が緑の屋根を仰ぐ」となったもので、これはレポーターの責任。小川もささやき草木も語る韻文の世界。散文的なおとがめは無用。
 また、この作詞作曲料は、恐らくだれも簡単には信じてくださらぬ程の少額で、今も思い出しては両先生に、お詫びしたい気持ちでいる。これは、学校も戦後の備品整備や建物の修理復活に多大の経費のみこまれる際のこと、われらの心配を察して、当時の経済緊急処置により入手困難な新円という制度により、御支払いいたしたいという金平氏のお願いを、両先生が諒承してくださったからで、流石に大家は、と感銘した。それにしても、多忙な任務に追われながら、足代もなしに、最初の交渉から最後のお願いまで、東奔西走してくださった金平氏の御霊に、今のわが倉工の隆盛を報告し、感謝の微意をささげたいと思う。

岡山県立倉敷工業高等学校校旗