「 剛球左腕 大野仁之助 」 と 「 心優しき豪傑 三宅宅三 」
「 倉工の監督が出来るんなら、玉商の監督をやれや。当時、私は玉商の監督を
していまして。 三宅 と喧嘩ですわ。 」と、大野。その後、 玉島商OB は、
三宅 の、倉敷工野球部監督 を容認。「 そしたら、すぐに県大会で優勝して
しまって。私は、玉商のOBから袋たたきに会いました。 」と、大野。
昭和23年夏、倉工は甲子園切符をかけて、 関西 と対戦するも惜しくも負け。
昭和24年夏、ついに甲子園初出場を果たす。一回戦 高津( 大阪 )に、9-1。
二回戦、 熊谷( さいたま )に、5-3で勝つ。迎えた準々決勝、夕暮れせまる
第4試合。相手は、誉れ高き名投手 福島一夫 を擁し、3年連続全国制覇を
狙う 小倉北 。イ草の香りが風に乗って鼻をくすぐる町、倉敷。その少年たちが
奇跡を起こす。息詰まるシーソーゲーム。 倉敷工 の守備の乱れに乗じて
Wスチール、スクイズと多彩な攻めで先手先手と攻める 小倉北 に対し、2、6回
の 藤沢新六 の2本本塁打はじめ、長打で追いすがる 倉敷工 は、9回ついに
福島投手をマウンドから引きずりおろした。延長10回一死満塁から 横山剛 の
遊ゴロの間に決勝点を挙げ、熱戦に終止符を打った。終わってみたら、7-6 の
勝ち。無欲の勝利だった。準決勝は 岐阜 。2-5 で敗れたものも、甲子園
初出場でベスト4。倉敷の名前が、全国に轟いた。 三宅 はいったいどの様な
指導をしたのだろうか。「 練習は厳しくしたつもりです。一つ叱ったら二つ褒めると
言う様な指導ではなかったかと思います。 」主将の 小沢 は「 身体の大きな
方で、ピンチがあろうがチャンスがあろうが、ドンとベンチに座って 『 思い切ってやれ 』
の一言だけでした。 」「全てが 『 思い切ってやれ 』の一言で押し切られました。」
「 小沢 と言う投手がいて、スピードはなかったけど、コントロールと変化球が
良かったから、あそこまで行けたと思います。あと、強力な打線があって、一チーム
4本のホームランを打ったチームは、当時としては、大変珍しかったと思います。」
と、 三宅。その後、 大野 と 三宅 は別々の道を歩む事になる。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」