『 倉工野球部 を 作った男 小沢 馨 』
「 ひたすらに フェアープレーで戦いました。 」 これは、昭和24年甲子園ベスト4進出を決めた直後の
倉敷工主将 小沢 馨 の談話である。この精神は 以後、 倉工野球 の礎となった。
母校の監督となり、 名将 知将 あるいは 勝負師 との名を欲しいままにした 小沢 馨。
春夏、甲子園通算出場 十五回。ベスト4 三回。ベスト8 二回。
そんな 小沢 には、雨の日に思い出す事があるという。
準決勝、対 岐阜戦。1-3とリードされた四回、1点を返し、さらに無死満塁のところで、突然の雨。
翌日再試合となった。宿舎に帰った選手らは、風呂の中で 「 これなら勝てる。優勝できるかも 」と はしゃぎたてた。
欲が出た。再試合では 強振を続ける打線は 空回り。頼みの 小沢 は、連投の疲れでひじが上がらない。球は走らず 2-5と敗れた。
敗戦を決めた無情の雨。「 あの雨さえなかったら。今でも雨の日には思い出す。 」と小沢。
昭和24年8月20日、倉敷市民は、倉工ナインの帰りを待っていた。大群衆の倉敷駅前広場。空には打ち上げ花火。
人々は、「 万歳! 万歳! 」の連呼。倉敷に新しい歴史が生まれた日。
小沢は「 今後は 後輩たちを指導して、必ず 全国制覇 を目指して、皆さんのご期待にそいたいと思います 」と、挨拶をした。
小沢は、大群衆に約束した。そして、小沢は、 甲子園から ふるさと倉敷 に野球の素晴らしさを持ち帰った。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく 敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考 瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
岡山放送 「旋風よ ふたたび」
山陽新聞社 「灼熱の記憶」
協力 小山 稔氏