熱闘甲子園 今昔物語 81 栄光の足跡 69(倉工の3元号 2)

第94回選抜高校野球大会
【大会期間】
2022年3月18日~3月30日

【倉工の3元号】
昭和、平成、令和の各時代に、ドラマを残し地元で「倉工」と称される伝統校の新たな物語に胸を膨らませるファンは多い。
3元号にまたがる逸話の数々を振り返る。
そして、伝統を受け継ぐ選手、監督、スタッフに伝えたい。
『昭和の名将小沢馨』
ところで、昭和の倉工を語るには名将の小沢馨を避けては通れない。
同校野球部で投手として活躍し、昭和24(1949)年の夏の甲子園で初出場した倉工を4強に導いた小沢。
阪神、ノンプロ(日鉄二瀬)を経て、昭和27(1952)年に、20歳で倉工の監督に。
(当時の)倉敷市長の要請を受け、夜間学校「倉敷市工」の事務職員となり、監督を任されたという。
監督として、春夏合わせて計14回甲子園に出場し、ベスト4に計3回進出した。
『小沢の心遣いさわやかイレブンに』
小沢の心遣いを伝えるエピソードが、昭和49(1974)年の第46回大会に残る。
8強入りして迎えた準々決勝。相手は部員11人で出場し、「さわやかイレブン」といわれた、池田だった。
倉工は、下馬評で有利とされたが延長12回の熱戦の末、1対2で敗れた。
後日にわかった事ではあるが、試合前日池田の練習場に、数人の、倉工野球部員の姿があった。「11人では、十分に練習できん。」と、小沢が手伝いのため部員を差し向けていたのだった。
小沢の人情家としての一面が今につながる、強打とおおらかなチームカラーの礎となったと言えよう。
数々のドラマは、正に街の歩みと共にあったのではなかろうか。それゆえ、倉工の試合は、「今も、地元の人々の心の中に、あの伝統のユニホームと共に鮮明に生きているのだ。」

倉敷工監督時代の小沢馨。岡山東商を率いた向井正剛とともに一時代を築いた。

喜ぶ、倉敷工ナイン。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
毎日新聞
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会