熱闘甲子園 今昔物語 83 栄光の足跡 71(倉工の3元号 4)

第94回選抜高校野球大会
【大会期間】
2022年3月18日~3月30日

【倉工の3元号】
勝敗を超えた、人間ドラマがある。

昭和42、43(1967,68)年の、倉工のドラマも忘れがたい。
2年にわたり、春夏の4季連続で甲子園出場を果たす黄金期だった。

ライバルの岡山東商が、エース平松政次を擁して、昭和40(1965)年の、第37回選抜で優勝し、倉工は、負けじと闘志を燃やした。
そのシンボルが、剛球左腕の、小山稔だった。
岡山東商からの誘いを、覆した小沢の殺し文句は、「選抜優勝校に勝って、甲子園に行けたら、気持ちがいいぞ。」

剛球左腕投手を得て、倉工は、昭和41(1966)年秋の中国大会で、準優勝し、翌春の選抜出場を確実視する声があった。
だが、選ばれたのは、選手たちが食中毒に見舞われながらも、中国大会準決勝で優勝校に善戦した津山商。

無念を押し殺し、小沢は夏に向けて、小山に投球練習を止めさせ、下半身強化のため、ひたすら走り込ませた。
ところが、予想外の事が起こる。

津山商が、野球部以外の生徒の不祥事で出場を辞退。補欠校の、倉工が大舞台に立つことになった。
開幕の、わずか一週間前の急展開だった。

本番に備えて、急仕上げした小山は以来肩の故障に悩ませるが、甲子園では優勝した津久見に2回戦で、1点差の惜敗。翌年は、春夏の甲子園で4強に進んだ。

昭和43年、夏の甲子園に出場した倉敷工。写真は、勝利した、享栄との、一回戦。

肩の不調に泣いた小山だが、当時を「良い監督に恵まれ、甲子園でも7勝もでき、悔いは全くない。」と話す。
小山にとって、完全燃焼の3年間に涙したのだ。

小山は長く、母校倉工の、コーチを務め多くの選手を、晴れ舞台に送った。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
毎日新聞
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会