監督 小沢 馨物語
新興、倉工は 三宅 宅三 監督就任で、またたく間に岡山県無敵となる。
倉工は、甲子園への第2関門となる東中国大会に進出。この東中国大会
とは、第30回大会から、第39回大会までは、島根 鳥取 岡山 の3県を
対象としていたが、第41回大会からは 島根 が西中国大会に編成された
ため、 鳥取 と 岡山 の2県で甲子園を争っていた。また、記念大会を
除いて23回行われたが、岡山県勢が14回、鳥取県勢が8回、島根県勢が
1回、甲子園に出場した。
昭和23年、倉工はこの東中国大会決勝に進出。原動力は、制球力が
抜群で、縦へのカーブ ドロップ が持ち味の エース小沢。 横山 妹尾
藤沢 らの中軸打線は、長打が狙える大型打線。しかし、決勝戦で 関西
に敗れて涙を飲む。
1948年 ( 第30回大会 ) 東中国大会決勝
倉敷工 3 - 6 関西
昭和24年、倉工に運命の時がやって来る。昭和24年の決勝は、オープン
間もない 倉敷市営球場 において 倉敷工 と 倉敷商 と言う地元チーム
同士で争われた。 倉敷工 小沢 倉敷商 鳥越 両エースの投げ合いと
なった決勝。まさに、市を二分しての決勝は、空前の人気を呼び、観衆は
スタンドの外まで溢れ、地鳴りのような歓声が響き渡ったという。
そして、倉工は2年連続で、東中国大会に進出。東中国大会初優勝を
飾り、夢の甲子園初出場を勝ち取る。
1949年 ( 第31回大会 ) 東中国大会決勝
倉敷工 2 - 1 境
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よふたたび 」
山陽新聞 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏