風雲の軌跡 初陣倉敷工 9

小沢 馨物語

昭和24年8月20日。倉敷駅前広場に集まった大群衆は、現在の倉敷国際ホテル

ぐらいまでの沿道を埋め尽くした。人々は、「 万歳! ばんざい! 」を連呼。

空には、打ち上げ花火。さらに、ブラスバンドの演奏までが加わった。まさしく倉敷の

夜明け。新しい時代が始まろうとしていた。急こしらえの、ステージに立った倉工ナイン。

そして、主将の 小沢 が、挨拶をする事になった。 「 主将の、私に挨拶をしろ

と言われて、私は上がってしまいましてね。あんな大勢の人々なんで。それで

【 優勝は、できませんでした。今後は、後輩たちを指導して、必ず全国制覇を

目指して、皆様の期待に、添いたいと思います。】 と、言ったらしんです。言った

らしんですよ。 」主将、 小沢 は、大群衆に、いや 倉敷市民に約束した。

のちに観光都市、あるいは工業都市に発展して行く倉敷。倉敷の名を全国に

伝えたのは、倉工エースで主将の 小沢。倉敷市民から、大いなる期待が寄せられた

のである。 倉工卒業後  小沢 と 藤沢 は、プロ野球阪神タイガースの

入団テストに合格。プロ野球生活をスタートさせた。しかし、一軍からの飛び出し

は、来なかった。一年が経過した頃、 社会人野球、日鉄二瀬 から、誘いを

受け、阪神タイガースを一年で退団して、二人揃って 日鉄二瀬 に移籍する。

「 今の給料の、2倍の給料をやる。と言われて、小沢と二人で行きました。 」

と、藤沢。移籍した直後の事。倉敷から、使者が 小沢 のもとにやって来た。

その使者とは、何と倉敷市長からだった。 「 小沢君、倉工の監督をやって

くれないか。倉工を強くして、甲子園に行って、倉敷の名を全国に広めてほしい

んだ。就職先は、もう用意してあるから。倉工グランドの横の、倉敷市立工業

高校の、事務員。仕事の途中でも、野球の指導をしても構わない。と、市長

が言ってるから。 」倉敷市長から、直々に監督を要請された 小沢。

こうして、 倉工小沢監督 が、誕生したのである。小沢監督が、20歳だった。

倉工の夢。倉敷の夢。夢は、ここから始まった。

 

つづく  随時掲載   『 ただし、初陣倉敷工は、最終回 』

お願い   本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考   瀬戸内海放送 「夢 フィールド」

OHK     「旋風よ ふたたび」

山陽新聞社  「灼熱の記憶」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 8

監督 小沢 馨物語
第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝
三年連続優勝を目指した 小倉北。「 キープ マイ ペース 」を唱えながら
終始冷静な、投球を続けた エース小沢 の過酷なマウンド。その小沢を援護
した、 捕手藤沢 新六 の2本の左中間への、大ホームラン。無欲であるが
ゆえ、 小沢 は詫びた。無欲であったがゆえ、倉工は勝ったのである。
迎えた準決勝。相手は、2年連続2回め出場の 岐阜。1対3とリードされた
四回、1点を返し、さらに無死満塁のところで、突然の雨。翌日再試合となった。
宿舎に帰った倉工ナインは、風呂の中で『 これなら勝てる。優勝できるかも 』
と、はしゃぎ立てた。欲が出た。無欲から 欲 にかわった。再試合では、強振
を続ける打線は空回り。頼みの エース小沢 は、連投の疲れで、ひじが
上がらない。球は走らず、 2 対 5 で敗れた。敗戦を決めた無情の雨。
【 あの時さえなかったら。今でも、雨の日には想い出す。 】と、小沢は言う。
    準決勝  岐阜 3 - 2 倉敷工  ( 四回降雨ノーゲーム )
           岐阜 5 - 2 倉敷工
昭和24年8月20日。倉敷駅前広場。
初出場で、ベスト4。感激を味わったのは、倉工ナインよりも、倉敷市民だった。
倉敷駅前広場に、集まった大群衆は、駅前だけでなく、沿道にも人があふれ
人々は、「 万歳! ばんざい! 」の連呼。空には、打ち上げ花火が上がり
ブラスバンドの演奏までが、加わった。急こしらえのステージに、立った倉工ナイン。
そして、主将の 小沢 が、挨拶をする事になった。
    つづく   随時掲載
お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考   瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
       OHK     「 旋風よ ふたたび 」
       山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 7

小沢 馨物語

 

三連覇の夢破れて、うなだれる小倉北ナイン。ナインは、その日のうちに夜汽車で

郷里、福岡へと帰って行った。どのぐらい走ったことだろう。泣き疲れて寝込んで

いた、 福島 は、電車の揺れで目をさましたのだった。ここは何処だろうと、外を

見た。見覚えのない町明灯かり。ところが、ホームの看板を目にした時、また悔し

涙が、出てきたのだった。そこは、イ草の香りが風に乗って鼻をくすぐる町、倉敷

だったのである。自宅に戻った 福島 に、翌日速達が届いた。大会副審判長

長浜 俊三 からだった。【 この甲子園で学んだものは、学校教育では学べ

ないものだ。君のポケットに入った、その土には、それが全てが詰まっている。

それを糧に、これからの人生を正しく大事に生きてほしい、 】と、書かれてあった。

ポケットの 土 の事などいっさい覚えていない 福島 は、慌ててバックの中に

入れたままにしている、汗まみれのユニホームを取り出し、新聞紙を広げ、ズボン

の後のポケットをひっくり返すと、ほんの一さじほどの土が出てきた。 福島 は、母

と相談して、玄関に置いてある ゴムの木の植木鉢 に入れた。この甲子園の

土は、その後の 福島 の心の糧となり 福島 の心を支えたのだった。

甲子園の土を持ち帰った球児は、実は過去にも存在していたのだが、この

エピソードが有名になり、 福島 は、「 甲子園の土を最初に持ち帰った球児 」

と、言われるようになっている。しかし、 福島 は、敗れた球児が甲子園の土

を、持ち帰るという行為を、次のように考えている。『 土産品ではないのだから、

それより、甲子園を目指した努力を、大切にしてほしい。 』と、語っている。

 

つづく  随時掲載

 

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 6

監督 小沢 馨物語

第31回全国高校野球選手権大会 準々決勝 第4試合

小倉北  020 102 001 0 6

倉敷工  010 102 110 1 7 ( 延長10回 )

「 何が何だかわからない内に、試合が終わったんです。終わってみたら、勝って

いたんです。 」と、小沢。そして、小沢は次の様に語る。

「 悪い事をした。と思いました。あの時ほど、悪い事をしたと思った事はないです。

小倉に、申し訳ない。 」 試合終了後、ホームプレートを挟んで、お互いが

挨拶をする時、「 ありがとうございました 」が、「 どうもすみませんでした。 」の

心境だったという。夢 破れてうなだれる、小倉北ナイン。試合後の挨拶を交わした

後、小倉北 福島 一雄 投手は、マウンドに戻って、センタースコアーボードを

仰ぎ見て、無意識のうちに、一握りの土をつかみ、尻ポケットに入れたのだった。

小沢は、「 何をやってるんだろう。 」と思ったという。また、その光景を、ある

大会役員が見ていた。その後、福島は、狭い通路で人目を気にせず、肩を

震わせ、泣きじゃくるのだった。小沢は、この時福島に帽子を取り、「 すまなかった 」

と一言言って、その場を立ち去ったのだった。勝った小沢の心を占めたのは、

勝利の余韻でなく、相手福島の姿だった。小沢はこの時初めて、【 常勝チーム

のエースとして、マウンドを守り続けた福島の、プライドと、甲子園に掛ける夢の

大きさを、知ったのである。 】 無欲であるがゆえ、小沢は詫び、無欲であるが

ゆえ、小沢は勝った。昭和24年8月18日、山陽新聞に、『 倉工殊勲の健棒

小倉の三連覇を阻む 』と出た。小倉北ナインは、この日のうちに、夜汽車で

郷里、福岡へと帰って行った。

 

つづく   随時掲載

 

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承ください

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 5

監督 小沢 馨物語

 

実力以上の力を引き出す無欲。先を見て足元をすくわれる欲。

昭和24年夏、甲子園初出場を果たした倉工ほど、微妙な勝負のあやを体験

したチームはない。

第31回全国高校野球選手権大会。8月17日 準々決勝。夕暮れの迫る

第4試合。相手は、中京商 以来の3連覇を目指す 小倉北。春夏通算16勝

を挙げた好投手 福島 一雄 を擁し、洗練された野球をするチーム。知名度

は、雲泥の差。高く分厚い壁。 小倉北 4年連続5回めの出場。

 

小倉北 ( 福岡 )   対   倉敷工 ( 東中国 )

 

「 私どもは、勝とうなんて全く思った事はなく、9分9厘とか一厘の望みだとか

世の中には、あるかも知れませんが、その一厘でさえ認められない、10が10

小倉の勝ち。と言う戦前の予想だったんです。 」と、小沢。捕手の

藤沢 新六 は 「 勝てる。と言うのは全くなくて、一生懸命やるだけだなあ。

と、私は思っていました。 」と。スタンドを埋めたファンも、倉工の勝利より

善戦を期待していた。倉工ナインも 「 勝てるわけない 」と荷物をまとめて

宿舎を出発。負けたら、道頓堀川あたりを観光して、帰るつもりだった。

だが、この開き直りが幸運を呼び込む。 「 キープ マイ ペース 」それだけを

唱え続けた、エース小沢の過酷なマウンド。そして、倉敷の少年たちが奇跡

を、起こす。

 

小倉北  020 102 001 0

倉敷工  010 102 110 1  ( 延長10回 )

 

息詰まるシーソーゲーム。倉工の守備の乱れに乗じて、ダブルスチール、スクイズ

と、多彩な攻めで、先手先手と責める 小倉北 に対して、二回と六回に

藤沢の、2ホームランをはじめ、長打で追いすがる 倉工 は、九回ついに

福島投手を、マウンドから引きずり下ろした。延長10回、一死満塁から

横山 のショートゴロの間に、決勝点を挙げ熱戦に終止符を打った。

 

つづく   随時掲載

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参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

風雲の軌跡 初陣倉敷工 4

第31回全国高等学校野球選手権大会。

1949年8月13日から、8月20日まで甲子園で開催された。

開会式での、入場行進における出場校選手の先導、女子生徒がこの大会から

開始された。主将で、エースの小沢は、次の様に語る。

「 甲子園は、最初から意識をしていたわけではなく、運良く行けたんです。

また、テレビはなく、絵もないし。ただあるのは、ラジオから聞こえて来る歓声だけで。

甲子園は、あの前に立っただけで、【 こんなに大きな建物かと 】びっくりして。

また、球場の中に入って練習の時に

【 こんなに、大きなグランドかと 】また、びっくりして。そして、開会式の時、

【 こんなに、大勢の人かと 】また、びっくりして。それで、試合になった時、

大歓声で第一球はどこに投げたかわからない状況でした。」

その開会式で、他県の選手は、「 倉敷ってどこ? 九州? 東北?」

また、戦前の活躍予想は、出場23校中22位というありさま。

それでも、好投手 小沢 馨 の得意球ドロップ ( 縦のカーブ )は、小気味

良く、捕手 藤沢 新六 のミットに吸い込まれた。打線も、尻上がりに調子を

上げ、 熊谷 ( 埼玉 ) 高津 ( 大阪 )と連破。準々決勝まで進んだ。

 

倉敷工 9 - 1 熊谷

倉敷工 5 - 3 高津

 

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参 考  瀬戸内海放送  「 夢 フィールド 」

OHK      「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社   「 灼熱の記憶」

協 力  小山 稔氏

風雲の軌跡 初陣倉敷工 3

監督 小沢 馨物語 

新興、倉工は 三宅 宅三 監督就任で、またたく間に岡山県無敵となる。

倉工は、甲子園への第2関門となる東中国大会に進出。この東中国大会

とは、第30回大会から、第39回大会までは、島根 鳥取 岡山 の3県を

対象としていたが、第41回大会からは 島根 が西中国大会に編成された

ため、 鳥取 と 岡山 の2県で甲子園を争っていた。また、記念大会を

除いて23回行われたが、岡山県勢が14回、鳥取県勢が8回、島根県勢が

1回、甲子園に出場した。

昭和23年、倉工はこの東中国大会決勝に進出。原動力は、制球力が

抜群で、縦へのカーブ ドロップ が持ち味の エース小沢。 横山 妹尾

藤沢 らの中軸打線は、長打が狙える大型打線。しかし、決勝戦で 関西

に敗れて涙を飲む。

1948年 ( 第30回大会 ) 東中国大会決勝

倉敷工 3 - 6 関西

昭和24年、倉工に運命の時がやって来る。昭和24年の決勝は、オープン

間もない 倉敷市営球場 において 倉敷工 と 倉敷商 と言う地元チーム

同士で争われた。 倉敷工 小沢 倉敷商 鳥越 両エースの投げ合いと

なった決勝。まさに、市を二分しての決勝は、空前の人気を呼び、観衆は

スタンドの外まで溢れ、地鳴りのような歓声が響き渡ったという。

そして、倉工は2年連続で、東中国大会に進出。東中国大会初優勝を

飾り、夢の甲子園初出場を勝ち取る。

1949年 ( 第31回大会 ) 東中国大会決勝

倉敷工 2 - 1 境

 

つづく  随時掲載

 

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参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よふたたび 」

山陽新聞    「 灼熱の記憶 」

協 力  小山 稔氏

風雲の軌跡 初陣倉敷工 2

監督 小沢 馨物語 

港町玉島の、誇り高き野球団 玉島モタエ倶楽部。

港町玉島の、剛腕 左腕エース 大野 仁之助 と 盟友である、六尺越え

の豪傑 三宅 宅三。大野は、激戦地で散った亡き友の、思いを胸に投げ抜き

、三宅は、五輪中止の無念を、国体にぶつけた。倉敷から越境入学して、

玉島商 で、青春を過ごした三宅は、砲丸投げで全国優勝。明治大学を経て

倉敷駅前の実家で、書店を営む日々を送っていた。一方、大野は指導者として

後輩たちと、甲子園を目指した。そんな時だった。倉工が新しく野球部を作る事

になったのである。そして、三宅に運命の時が来た。野球部部長が、三宅の家を

訪問。「 三宅君、倉工が新しく野球部を作る事になったんで、時間と暇がある

んだったら、監督を引き受けてくれないか?。 」と、監督をお願いした。

すると、 玉島商OBたちは、「 倉工の監督をするのだったら、 玉島商 の

監督をやれい 。」と、猛反発したという。当時、玉島は玉島市であり、倉敷への

対抗意識が、根強いものがあったようである。その後、 玉島商OBたちは、

三宅 宅三 倉工監督を容認。三宅の監督就任で、正式に 部 に昇格。

小沢ら、野球の申し子たちは、躍り上がって大歓喜。新興、倉工は三宅監督

就任で、またたく間に岡山県無敵となる。その、源流に戦前、最強の 玉島商

野球が存在していた。三宅監督の就任で、 玉島商 仕込みの猛練習だった。

 

つづく   随時掲載

 

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参 考   OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力   小山 稔氏

 

新連載! 風雲の軌跡 初陣倉敷工

監督 小沢 馨物語

 

戦争の爪痕が、色濃く残る昭和24年。

感激の初陣を果たしたチーム。倉敷工業野球部。イ草の香りが風に乗って

鼻をくすぐる白壁の町倉敷。小さな町のチームが、大きく確かな第一歩を

大甲子園へ。昭和16年に創部された倉工野球部は、戦中廃部。

22年に、野球好きが集まって再結成された。その中心となったのが、野球の

申し子 小沢 馨。小沢が、一人一人に、「 野球をやろう 」と、呼びかけた

のが、切っ掛けだった。そして、やっと9人揃ったところで校長室に行った。

すると、校長は 「 お金のかかる野球は、やらない。 」との返事。それでも

小沢ら、野球の申し子たちは、こずかいを出し合って、ボールやバットを買って

同好会的な形で、練習を行っていたという。野球を愛する人が、自ら結成

したチームだった。そんな活動が認められて、昭和22年新しく野球部を作る

事になったのである。早速、野球部部長は 玉島商OBの 三宅 宅三氏

に、監督をお願いした。三宅は、六尺越えの、伝説の豪傑。昭和21

第一回京都国体軟式野球大会 準優勝。また、陸上競技 砲丸投げの

選手でもあり、同大会で、第三位。港町玉島に陸揚げされた、一個の白い

ボールが、数々のドラマを築いて行く事になる。戦後、 玉島商OBで結成

された野球団、玉島モタエ倶楽部は、堂々の国体決勝進出。

京都国体。それは、死地から生還した当時の若者の、夢舞台でもあった。

玉島モタエ倶楽部野球団は、千年の古都に足跡を残す。

その中心選手 三宅 宅三 。新興 倉工は、三宅 宅三監督就任で

甲子園を、目指すことになった。

 

    つづく   随時掲載

 

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参 考   瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

       山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力   小山 稔氏