青春ヒーロー プレイバック 16 ( 最終回 )

小山 稔物語
甲子園から宿舎まで徒歩で帰っていた。小沢監督は、角野に続いて小山に歩みよった。
そして、小山の肩をポンポンと叩いた。「 小山、三年間ご苦労さん。小山、おまえ三年間
本当に良く頑張ったな。今日も肩が痛いのに、良く投げてくれたよ。ナイスピッチングだったよ。」
恩師、小沢監督から初めて受ける ねぎらい と 感謝 の言葉だった。
母に誓ったプロ野球選手。少年の日の夢。その言葉に小山は、【 エースの喜びを知り
完全燃焼の涙を流したという。】 ケレン味ない絶妙の投球と、強靭な精神力。小沢監督
に憧れ、倉工の門を叩き、腕も折れよと投げ抜いた甲子園 97 イニング。彼には、40年の
岡山東商に四滴する栄光が求められた。結局母校に、大優勝旗をもたらす事はできなかったが
小山が挙げた 甲子園での勝利数7 を抜く投手は県下に今だに現れていない。
「 黄金の左腕 」と、呼ぶのふさわしい、大エースだった。
心の豊かさ。それは夢を失わず、夢を持って生きる事。決して本調子でなくても、序盤に打ち込ま
れても、投げ続けるのがエース。マウンドを守り続けるのがエース。人生も、またそうなるべきである。
黄金の左腕 小山 稔。彼の青春には、運命のいたずらと、破綻の恐怖が付きまとった。
それでも、夢を見たのである。もしも、あの時繰り上げがなかったら、その後の甲子園の結果は
違っていたかも。「 あの繰り上げ出場がなかったら、甲子園優勝はもとより、日本を代表する
投手に、なっていただろう。 」と、小沢監督は言う。 「 投手生命は、短ったけど、あの舞台で
あそこまで投げれて、満足です。」と、小山。その後、小山は社会人野球の強豪 河合楽器
に行くが、間もなく現役を断念。倉工コーチを経て、野球用品関連の仕事をする。
事業のかたわら、少年たちを指導する、 野球道場 を主宰。技術だけでなく、礼儀、道具の
大切さ、そして野球を愛する心を、説いている。黄金の左腕は、キズついても心は常に野球と
共に。「 いい仲間と、倉工のグランドでせい一杯やれました。野球としての悔いは全くありません。」
と、言い切る小山。そして、少年の日と同じ目の輝きを持ち続けている。小山の夢は終わらない。
「 もう一度生まれ変わっても、野球をしたいですね。今度は、絶対にプロに行きます。高校は
もちろん倉工でやります、」と、小山。今でも、球場アナウンスが聞こえて来るようだ。
【 岡山県代表 倉敷工業高等学校 ピッチャーは 小山くん  小山くん 背番号1 】
      おわり
お願い  本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承ください
参 考  瀬戸内海放送 ( 夢 フィールド )
      山陽新聞社  ( 灼熱の記憶 )
協 力  小山 稔

青春ヒーロー プレイバック 15

小山 稔物語
甲子園から、宿舎まで徒歩で帰っていた。

その時、小沢監督が3塁コーチャーの角野に歩みよった。

「角野、あの時小山を3塁で止めたのは、なぜなんだ?」 と、語りかけた。

角野は 「ランナーが小山だったからです。」

すると「そうか。わかった。」と、小沢監督。

このシーンについて、角野は次の様に語ってくれた。

静岡商に、2 対 0 でリードされていて、回も終盤 ( 7回 )になった時、小山が出塁したんです。

次の中村の当たりは、ライト線2塁打コースとなって、小山が2塁ベースを踏んで、3塁まで来ますよね。中村は2塁へ行きます。

ところが、ライトがもたついたんです。

それで、小山をホームに突入させるべきか、3塁で止めるべきか。私が、迷いに迷ってしまいましてね。

でも、最終的には小山を3塁で止めたんです。それはなぜかと言うと、ランナーが投手の小山だったからなんです。

これで、無死2、3塁となりました。続く富永の当たりは、一塁手と二塁手のド真ん中の当たりでした。

しかも、低いライナーだったんです。

二塁手がダイビングで打球に飛び込んで行って、しかもショートバウンドで捕って、一塁に投げて富永はアウトになりました。

ところが、中村が三塁まで走って来て、三塁ベースで、小山と鉢合わせになったんです。

それを見た一塁手が三塁に転送して、小山がホームと三塁との間で挟まれてタッチアウトになったんです。

私は、この時ものすごい責任を感じましてね。

あの時2,3塁になった時、3塁コーチャーとして、適切ないいアドバイスをしてやれなかった事で。

あの時、いいアドバイスをしておけば、あんな事にはならなかったと思うんです。

もしかしたら、同点にあるいは、逆転勝ちして、決勝に行けたかもしれないのに。

全ては、私の責任と思っていました。

ところが、徒歩で宿舎に帰っている時に、監督さんが、「角野、なぜ小山を三塁で止めたんだ?」と聞かれ「ランナーが小山だったからです。」と答えたんです。

すると、監督さんは、「そうか、わかった」と言ってくれたんです。私は、あの時監督さんの、「そうか、わかった。」のお言葉に、本当に救われる思いをしました。と、熱く語る角野。小沢監督は、角野に大きな信頼を置いていたのである。

次に、小沢監督は、小山の所に歩みよっていった。

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  角野 充 氏

小山 稔 氏

青春ヒーロー プレイバック 14

小山 稔物語

 

  チャンスに打てず   惜しい小山の力投

 倉敷工  000 000 000  0

 静岡商  011 000 000  2

 二塁打 中村 ( 倉敷工 ) 犠打 倉敷工3 ( 土倉 武 亀山 )

                       静岡商4 ( 藤波 小泉2 寺門 )

                   盗塁 倉敷工 0  静岡商 1 ( 青木 )

倉敷工は春に続いて、またしても決勝進出をはばまれた。静岡商得意のバント戦法に

苦杯をなめた。静岡商は、二回一死から松島がレフト前打。戸塚もセンター左へ安打。

俊足の松島は判断良く三進。寺門は21後のウエストボール気味の球を、投手前に

スクイズ。松島が楽にホームを踏んだ。さらに、三回は、先頭の新浦四球に出たが、青木

の、投ゴロで二封された。青木はすかさず二盗。ここで、佐藤は12から倉敷工の深い

守備の裏をかいてドラックバント。これが内野安打となって、一三塁。藤波は11から

外角高めのウエストされた球を飛び上がってスクイズを成功をさせた。倉工バッテリーは

スクイズに来ると読んで、はずしたのだが、藤波の執念にしてやられた。ここらあたりに

高校野球でのバントの重要性をまざまざ見せつけられた。肩が痛いと言う 小山 だった

が、連投の疲れも見せず、球は良く走り、カーブの切れも良かった。それだけに、わずかの

すきをついた静岡商のソツのない攻めは光った。この追加点は、連日炎天下で力投を

続け、気力だけで投げている新浦にとって、大きな支えになった事だろう。新浦は長身

から快速球を投げこんで、当たっている倉工打線と真っ向から勝負して完封した。

倉敷工もさすがに優勝候補。敗れたとはいえ、持てる力を出して戦った。終盤、得点

にこそ結びつかなかったが、その粘りはたいしたものだった。惜しまれるのは、七回。

この回、小山の四球。中村のライト線二塁打で、無死二三塁と攻め寄った。ところが

ここで思いもよらぬ不運があった。富永の打球は一二塁線を抜いたかと思われたが

二塁手に横っ跳びに好捕されて、一塁でさされた。しかも、三塁走者の小山はいったん

ホームに突っ込みかけたが、コーチャーの静止があって三塁へ戻った。その間、中村は

すでに三塁へ。小山は、追い出されるような格好で三本間で挟殺された。まずい走塁

ではあったが、ここは二塁手の好プレーをたたえるべきだろう。結局、倉敷工は好機に

一発が出ず惜敗したが、速球投手 新浦 に対してバットを短く持ったミート打法、

そして、小柄な小山投手の力投などが、強く印象に残った。

                   昭和43822日 山陽新聞 角野 充氏提供

この、静岡商戦が、投手小山の実質的なラストゲームとなった。歯をくいしばって

投げ続けた高校夏の姿。小山と倉敷の熱い季節は終わった。この日、倉敷が泣いた。

 

    つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 ( 夢 フィールド ) 

      山陽新聞社  ( 灼熱の記憶 ) 

協 力  角野 充氏

      小山 稔氏

青春ヒーロー プレイバック 13

小山 稔物語

最後の夏。痛みをこらえ投げ続ける、エース小山の力投で、倉工は春と同じく四強まで、勝ち進む。準決勝の相手は、同じ左腕の好投手 新浦 寿夫 投手を擁する静岡商。しかし、小山の肩は 広陵戦 後、ぼろぼろに。「 歯ブラシを口まで、持ち上げられませんでした。しかも、顔を洗おうとしても、手が顔まで上げられなくて、顔を手に近づけて行って洗いました。」 小山の肩は、悲鳴を上げているのだ。
宿舎から、甲子園までは徒歩で移動。途中ある高校のグランドで練習する事になった倉工ナイン。小山は、「10メートル先の相手に、ボールが届きませんでした。」 と言う。
母に誓った プロ野球選手。消え行く少年の日の夢。 小山は、絶望の中、球場入りしたのだった。
準決勝は、第2試合だったため待機をしていた。そこへ朝日新聞社の記者がやって来た。
「 小山君、小山君。明日の決勝戦は、 興国 と 倉敷工業 に決まっているようなもんなんで、 興国 の丸山君と握手をしている写真を撮らして下さい。今、撮っておかないと、明日の新聞に間に合わないんです。」そう言われた小山は、「 興国は、まだ試合中だし、うちはまだ試合をやっていないし、そんな事をしたら、監督さんに怒られます。 」そう言うと、記者は、「 小沢監督には、了解をもらっているから、大丈夫です。」
小山は、記者に連れられて、まだ試合途中の 興国エース 丸山 朗 投手と握手を交わした。こうして、迎えた準決勝、対 静岡商戦 だったのである。
絶望の小山は、グランドの中に入り、ある光景を見た瞬間、あれほどまで痛かった肩の痛みを忘れた、と言う。小山が、見た光景とは何か?。それは、倉敷から駆け付けた大応援団だった。そして、アルプス席から聞こえて来る、大声援。「 小山!、小山!頑張れよ!。小山!。 」 大応援団と、大声援が小山の中に飛び込んで来て肩の痛みを忘れたと言う。「 火事場の、馬鹿力です。 」と、小山は言うが、果たして本当にそれだけだったのだろうか?。いや、もう一つある。小山を支えるもの。小山を支え続けて来たものがある。それは、倉工のエースナンバー1のユニホームであったはず。倉工エースの誇り。
決して本調子でなくても、あるいは序盤に打ち込まれても、投げ続けるのが本当のエース。
マウンドを守り続けるのが、倉工エースの宿命なのだ。小山は、倉工エースの宿命を背負っている自覚を、持っていたのではなかろうか。
こうして、準決勝 対静岡商 との試合が始まった。
マウンドの小山のもとから、各ポジションに散るナイン。

つづく   随時掲載

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本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考
瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力   小山 稔氏

 

 

 

 

 

青春ヒーロー プレイバック 12

小山 稔物語

野球への探求心が、旺盛な角野。その角野が、エース小山の投球について次の様に語る。
「小山の球は、回転が綺麗なんです。回転がいいからよく球が伸びるんです。しかも、打者の手元でホップするんですね。そして、落差のある縦へのカーブがあるんです。ですから、ホップするストレートの高さと、低めに決まるカーブ、高さと低さを武器にした投球が、持ち味なんです。」と熱く語る角野。
これに対して、エース小山は、「私の、手や指そして肘や肩が、硬式のボールに合っていたんでしょうかね。」と。
事実、エース小山の手の指は、短く太い。

第50回全国高校野球選手権大会
一回の守備につく倉工ナイン。エース小山が、甲子園のマウンドに上がる。
藤川が、捕手席に座る。残りの7人の侍は、小山のすぐ後ろで円陣を組む。
エース小山が、投球練習を開始しようとした時、掛け声と共に、各ポジションに走る7人の侍。

3回戦    倉敷工 9 - 2 高知  小山6勝め

主砲 武 のバットが火を噴いた。4回大会13号ホームランとなる、3ランを左中間スタンドに叩き込み、この回一挙8点を上げ、勝負を決める。

準々決勝  倉敷工 6 - 3 広陵  小山7勝め

この日、第4試合でナイターとなった。
広陵のエースは、( 小さな大投手 )の異名を持つ、左腕宇根洋介投手。
身長167㎝で、甲子園8勝している、宇根投手を、倉工打線は序盤で攻略した。
1回2回3回に、各1点。4回には2点を上げ、試合の主導権を握り、粘る広陵を振り切る。
甲子園に流れるアナウンス。
【勝ちました、倉敷工業高校の栄誉を称え、同校の校歌を斉唱し校旗の掲揚を行います。】
五万の観衆の歓声がとどろく、大甲子園のセンターポールに緑の校旗がはためく。
『水島灘の 沖ゆく白帆も・・・・』 大甲子園にこだまする勝利の賛歌。いつ聞いても、どこで聞いても、そして歌っても「 いいなあ 」と感じる。

そして、8月21日 準決勝 静岡商 との対戦の朝が来た。

つづく 随時掲載

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参 考
瀬戸内海放送 番組「 夢 フィールド 」
山陽新聞社「 灼熱の記憶 」

協 力
角野 充氏
小山 稔氏

 

青春ヒーロー プレイバック 11

小山 稔物語 

栄冠は君に輝く。 全国高校野球選手権大会の唄。
「 雲は湧き 光あふれて・・・・ 」
1948年に発表された。1948年の学制の改定に伴い、さらにこの時の大会が1回大会から数えて30回めの節目の大会であった事から、主催者の朝日新聞社が、新しい大会歌として、全国から詩の応募を募った。応募総数5000以上の中から最優秀に選ばれたのが、元高校球児の 加賀大介氏 が作詞したこの【 栄冠は君に輝く 】だった。

 50回全国高校野球選手権大会。
196889日から822日まで開催。
球史半世紀を祝う記念大会として開催された。開会式に、皇太子夫妻を招いた。
45都道府県から各1校。北海道は南北から各1校。さらに、米国の統治下にあった
沖縄から、1校を加え、48校が甲子園に集った。

昭和4389日。倉工ナインは、開会式直後のオープニングゲームに登場。
文部大臣の始球式の横に立つエース小山。そして、エース小山が投球練習を開始しようとした時、マウンドの小山の元から、掛け声とともに、各ポジションに走るナイン。

1回戦  倉敷工  5 - 1  享栄   小山4勝め

倉工は9安打の中、二塁打2本、三塁打1本に盗塁4個を決めて、快勝。

2回戦  倉敷工  8 - 0  千葉商  小山5勝め

倉工は、初回4点、五回に3点。打っては16安打した。しかし、千葉商の左腕今井投手に、9三振を喫する

倉敷の商店街では、不思議な現象が起きた。白壁の町は、倉工の試合時

商店街から、人影が消えたのだ。町中は、テレビにクギづけ。勝利に湧く倉敷の町。
そして、最後の夏。肩の痛みこらえ投げ続ける、エース小山。
倉工ナインは、大優勝旗に向けて突き進む。

つづく 随時掲載

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参 考
瀬戸内海放送  「 夢 フィールド 」
山陽新聞社   「 灼熱の記憶 」

協 力   小山 稔氏

青春ヒーロー プレイバック 10

小山 稔物語

「 昭和43年のチームが、史上最強のチームです。」と小山は、胸を張る。
俊足巧打の 土倉。 バントの名手 山口。 強肩捕手で主将の 藤川。 不動の4で長打の主砲 武。 エース小山は、右打席でも左打席でも打てるスイッチヒッター。
広角打法の 中村。 意外性の男 富永。 2年生のレギュラー、チーム一の張り切り男岡本。 渋い打撃が魅力の 亀山。 さらに、野球を愛する心は誰にも負けず、また野球への探求心が旺盛な 角野。この角野が、3塁コーチャーズボックスに立ち、ランナーをホームへと導くのだ。そして、倉工のエースナンバー 1 をつけた 小山 の力投。
甲子園への視界は良好。 ライバルは、エースで4番の 奥江秀幸選手(大洋ホエールズ入団)のいる、岡山東商。まさに、闘魂と百戦錬磨が知略を巡らせ、執念を燃やす竜虎の激突になるのは、必至の予選である。こうして、史上最強チームの夏が始まった。

50回全国高校野球選手権大会 岡山県大会
50回大会記念大会として、全国都道府県の代表校に、沖縄の代表を加えて48校が甲子園切符をつかむのだ。

2回戦   倉敷工 6 - 0 岡山日大

3回戦   倉敷工 4 - 1 理大附 

準々決勝  倉敷工 10 - 6 笠岡商

準決勝  倉敷工 2 - 0 倉敷商

決勝は、ライバル 岡山東商。岡山県の二大都市、岡山市の代表 岡山東商。
倉敷市の代表 倉敷工業。両校の戦いは、早慶戦の様な特別なものがあるのだ。
岡山県高校野球黄金時代の絶頂期である。
先攻を取った倉工は、一回表 4番 武 が2点タイムリーで先取点を上げる。勢いに乗る倉工は、五回にも 武 の2点タイムリーで4点。主砲 武 が4打点の大活躍で快勝。
投げては、エース小山が完封。倉敷は、市民の大歓声に包まれたのである。
そして、倉工ナインは小沢監督を胴上げして、喜びを爆発させたのだ。
甲子園2年連続6回め、前人未到の 4季連続甲子園出場を果たしたのである。

決勝  倉敷工  4 - 0  岡山東商

母に誓った、プロ野球選手。少年の日の夢。一抹の不安を抱えながら肩の痛みをこらえて投げ続ける 小山。深紅の大優勝旗をつかみに、史上最強チームが聖地へと向かった。

ozawa
4季連続甲子園出場を決め、小沢監督を胴上げする倉工ナイン。
写真の、一番右にいるのが、 4番 武 渉選手

 

つづく  随時掲載

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参 考
瀬戸内海放送 番組 「夢 フィールド」
山陽新聞社      「 灼熱の記憶」

協 力
角野 充氏
小山 稔氏

 

青春ヒーロー プレイバック 9

小山 稔物語 

昭和43年の倉敷市。工業都市として、みぞうの発展を遂げ また 観光都市としても全国にその名を知られる。水島コンビナートでは連日フル操業が続く。
こうした中、倉敷のシンボルとして、あるいはアイドルとしてその存在価値を高めて行く倉工野球部。 「今度こそ、全国制覇を。」 と、倉敷市民は熱い期待を寄せるのだった。
特に、エース小山に寄せる熱い期待と信頼は絶大なものであったに違いない。
「倉工のファンは、熱狂的で特別なファンなんです。」 と小山。「練習を終えて帰宅していると ( 小山、今帰っているんか。気をつけて帰れよ。) とかですね、( おおい、小山がんばれよ。)とね。」 「毎日、たくさんの人が声をかけてくれて、本当に嬉しかったです。」と、小山は言う。小山は、今現在も感謝の心を持ち続けている。
全国制覇に向けて走る、倉工ナイン。当然、練習の厳しさも一日一日と増して行く。

グランドの周囲には、のどかな田園地帯が広がっていた。田んぼからは、カエルの鳴き声が
聞こえる。ところが、その田んぼの中にボールが飛び込んで行く事があった。すると部員たちは先を争う様に田んぼの中のボールを拾いに行くのだった。当時は 「水をのんでは、いけない。」と言われていた時代。ところが、部員たちは何と、田んぼの水を飲んでいたのである。
小山もその一人。 「田んぼの中に、ボウフラがいましてね。そのボウフラを手でかき分けて手で田んぼの水をすくって飲みました。もしかしたら、一匹や二匹のボウフラを飲んだかも知れませんね。」と、苦笑いする小山。田んぼで農作業をしていた、おばさんがその光景を見て「 まあ、可哀想に。倉工の野球部は田んぼの水を飲んでいる。 」と、周囲に漏らしていたのも事実である。その、おばさんが田んぼに農作業に出かける時、麦茶を用意してボールを拾いに来た部員に、そっと飲ませていた事もあるそうである。そして、 「倉工、頑張って。」と、一声。 倉敷に満ち溢れるエネルギーと、歩を合わせる快進撃を、いや 全国制覇を倉敷市民は期待していた。

つづく     随時掲載

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参 考   瀬戸内海放送 「夢 フィールド」

       山陽新聞社   「灼熱の記憶」

協 力   小山 稔氏

青春ヒーロー プレイバック8

小山 稔物語

春、選抜でベスト4まで行ったからには、夏は優勝しかない。
倉敷市民の熱い期待を背に、大優勝旗に向かって走る倉工ナイン。当然、招待試合などに招かれるケースも増える。小山にとっては、これが不運。痛めた左腕を休める間もなく状態を悪化させて行く。
女房役で主将の藤川は、「高校生離れした球威を誇った、一年生時の小山を思うと、どんどん状態が悪くなっていた。」こうした中、九州招待試合があった。( 中津工 津久見 ) 「今日こそ、小山を休ませよう。」と、小沢監督。小山を温存したのだった。ナインも投げられない小山を励ました。
ところが、スタンドからヤジが飛んで来た。「こらっ!小山を投げさせろ。小山を投げささんか。ワシは小山を見に来ているんじゃ。」と。このヤジに対して、小沢監督は知らん顔。しかし、倉工ナインは燃えた。
主砲の、武のバットが火を噴いたのだ。中津工のエース大島 康徳投手 (中日ドラゴンズ 入団) からセンターバックスクリーンに、豪快なアーチを放つ。『武 渉選手のユニホームが、甲子園博物館に展示されています。』
津久見には、通算打率4割2分。本塁打17本をマークした、太田 卓司選手(西鉄ライオンズ 入団)がいた。2年生の時、春の選抜 (倉工と対戦) に出場。エース吉良 修一投手の好投もあり決勝に進出。延長12回の熱戦の末、弘田 澄男選手の 高知高 を、2対1で降し初優勝。この、太田 卓司選手も、倉工期待の一年生投手から、センターバックスクリーンに叩きこんだのだった。
倉敷工 武  津久見 太田 。 両主砲の一発に観客は酔い痺れた事だろう。
工業に観光に発展して行く倉敷市。水島コンビナートでは、連日フル操業が続いていた。こうした中、倉工は、街のシンボルとして脚光を浴びて行くのだった。当然、倉工ファンも多くなって行く。
小山は、「とにかく、倉工のファンは、特別なファンなんです。」と言う。

つづく    随時掲載

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参 考
山陽新聞     (灼熱の記憶)
瀬戸内海放送  (夢 フィールド)

協 力
小山 稔氏
武  渉氏

 

青春ヒーロー プレイバック7

小山 稔物語

第40回選抜高等学校野球大会。

昭和43年3月28日から4月6日までの10日間開催。中国地区からは、倉敷工 尾道商 広陵 防府商が出場した。昨年の選抜において倉工が、繰り上げ出場。夏に向けて走り込み中心の練習に取り組んでいただけに、急な投げ込みがたたって、小山の左腕は肘と肩に後々までいえない故障を抱えていた。

昔から甲子園には、魔物が潜んでいると言われているが、その魔物は、「倉敷工業を甲子園に出場させてやるが、小山の肩をくれ。」と、言っているのだろうか。こうした中、小山は歯を食いしばって投げつづける。

2回戦     倉敷工 3 - 0 清水市商   小山2勝め

準々決勝   倉敷工 4 - 0 銚子商    小山3勝め

今大会、優勝候補筆頭の銚子商を下す。

「肩が痛いのは、当然です。でも痛いながらのピッチングができました。」と小山。

「黄金の左腕 小山 稔」 2試合連続完封を達成する。

準優勝    倉敷工 1 - 3 尾道商

準決勝 ベスト4にて敗退。宿舎に帰った倉工ナイン。小山は、小沢監督に呼ばれた。

「気力が足りない。今日の、ピッチングは何んだ。お前みたいな者は出て行け。」すると、小山は下を向いたまま、宿舎を出た。出て見ると外は雨が降っていた。小山は、宿舎の外で雨に打たれながら下を向いて立っていたのである。すると、小山のもとに一人のOBが優しく語りかけて来た。

「小山、中へ入れ。風邪をひくぞ。監督さんは ( 小山には夏があるんだ。夏に向けて頑張れ )と言ってるんだよ。監督さんの愛のムチなんだよ。」と。すると、小山は自分の手を握りしめた。前を向いた。そして、唇をかみ再び闘志がみなぎって来たのだった。

 

つづく  随時掲載

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参 考

山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送「夢 フィールド」

協 力 小山 稔氏