共創 共に創り上げる喜びを

11月9,10日 「 共創 共に創り上げる喜びを 」を、テーマに 第70回倉工祭 文化の部 が盛大に開催されました。

一般公開となった、10日は早朝から他校の生徒さんをはじめ、保護者、そして昭和20年入学の3人をはじめとする多くの、おいまつ会会員が、詰めかけしました。

おいまつ会館では、今年も おいまつ会作品展 を開催し、同窓生の絵画 書道 彫刻 等の展示を行いました。その中で最も注目を浴びたのは、『 倉工硬式野球部77年の歩み 』と、題し 昭和24年甲子園初出場した時の写真から、平成21年選抜甲子園出場に至るまでの写真パネルでしたが、多くの人々が、足を止めて見入っていました。さらに、当HPで、お馴染みの 「 青春ヒーロー プレイバック 黄金の左腕 小山稔物語 」を、印刷して、展示したのも、多くの女性から人気を博していました。

 

今後の課題としては、より一層の展示物を期待したいと思います。

 

がんばれ倉工   輝け 美しい文化の倉工

 

昭和36年のドラマ10 (最終回)

土倉、永山、森脇の三人に質問をした。

Q もう一度、生まれ変わっても倉工で、野球をやりますか?

土倉 「小沢監督には、叱られてばっかりで、褒めてもらった事なんか一度もないんですけどね。それでも、小沢監督とあの時と同じメンバーでやりたいです。」

永山 「とにかく、走りますね。」

森脇 「今度は、きちっと予定を立てて、アクシデントのない様にしたいですね。小沢監督と、あの時と同じメンバーでやりたいです。」

インタビューを終えた三人は、談笑をしながら倉敷市営球場を後にした。

あの夏、倉工ナインは10代の少年には、あまりにも過酷な運命にさらされました。しかし、何も悲惨な記憶でもないのです。何物にも代えられない友情の証として誇らしい甲子園の戦いの想い出として、今も彼らの胸を熱くするのです。

あの夏の勝利の女神に見放された少年たちは、勝利以上に貴い心の糧を手に入れたのです。

おわり

がんばれ  倉工 羽ばたけ 紺碧の大空へ 倉工野球部

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考  瀬戸内海放送  番組「夢 フィールド」

協 力  岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ9

新聞に、「選手に謝る 小沢監督」と出た。
森脇に全てを託す意味からも、あの時永山をベンチに下しておくべきだった。
采配ミスを、選手に謝ったのだ。しかし、ようやく投げられるようになったばかりのエース森脇にとって、「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」
再登板は、あまりにも酷だったのだ。
宿舎に帰った小沢。襖を開けると思わず息をのんだ。そこには、大広間に松本ら全選手が、正座をして小沢の帰りを待っていたのだ。小沢も正座をして手をついた。
「申し訳ない。お前たちを勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったらお互いことわりをしよう。(どうも、すみませんでした)と。わしは、何回も謝る。君らも一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」と言うと、手をついて頭を下げたのだった。
一方、松本らは「森脇を、出してくれてありがとうございました。」「ありがとうございました。」
小沢の目に、光るものがあった。松本らは、感謝の言葉を返したのだった。
この後、小沢は、何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して選手を責めなかったという。
情に厚い人格者でもあったのだ。
全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。全ての責任は、監督の私にある。どんな非難も、私一人が受け止める。それよりかは、甲子園出場を果たしたことを、君らの永い人生に活かしてほしい。
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

つづく 随時掲載

お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

参 考 山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」

協 力 岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

 

昭和36年のドラマ8

延長11回表、倉工は一死満塁から松本の左越え二塁打や、白川のスクイズ等で一挙6点を上げた。日本中の誰もが、「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。土倉は、「私の方から監督さんに言ってませんが、あと一回でいいんで、森脇を投げさせてほしい。と思っていました。」と。
延長11回裏、報徳沢井監督は、先頭打者の4番奥野に代えて、試合に出た事のない平塚を代打に送った。その平塚は、ボテボテの内野安打で出塁。一死後、6番藤田が死球で一塁二塁。
7番清井は、浅いライト前ヒットだったが、平塚が迷わず本塁に突入。本塁上のクロスプレーは大きくうまく回り込んで、きわどく生還。6 対 1。続く吉村のファーストゴロの間に2点め。
6 対 2。 倉工4点リード。 ランナー3塁。 しかし二死。
小沢は思った。「今まで、頑張って来たのは、全ては森脇のためなんだ。ここで使おう。」と。
こうして、エース森脇がマウンドへ。松本らナインの悲願は達成できたのだった。一方、永山は三塁へ回った。永山は「やれやれ、これで自分の役目は終わった。」と、思ったのだった。
エース森脇、2ストライク1ボールと追い込んだ。そして、渾身のストレートを投げ込んだ。
すると、主審の右手が上がりかけた。上がりかけた。土倉は、「ライトから見ていると、ストライクか、ボールかがわかるので、その一球でベンチに帰りかけていました。」と。ところが、主審の右手が下がった。「ボ ボール」 結局、この一球が、倉工にとって運命の一球になったのだった。
この運命の一球について、永山は「審判は、自信を持って、ジャッジコールをしていると思いますが捕手の槌田は (あの一球は、絶対にストライク) と、何年も何年も言い続けていました。」
森脇は、その7番高橋に四球。8番の貴田に、レフト前にタイムリーで3点め。森脇にとってやっと、投球練習が出来るようにはなっていたが、甲子園でのマウンドは、明らかに酷だったのだ。
ここで、倉工ベンチは、森脇をベンチに帰し、永山に再登板を命じたが、レフト前ヒットで満塁に。
続く、内藤は、センター前ヒットで、二人のランナーが帰り、1点差となった。打順は一巡。
平塚は、センター前へヒット。二塁走者の東は本塁に突入できず、三塁で止まるが、センターからの返球を、捕手の槌田が後逸。それを見た、東が帰って 6 対 6 の同点となった。
報徳の勢いを、倉工は誰も止められない。12回裏、報徳は、藤田がレフトへ2塁打。
清井のサードゴロの間に、三進。ここで、倉工ベンチは、2人の打者に敬遠を指示し満塁策を取った。続く、貴田は、ライトへ。わずかに土倉のグローブをかすめた。 6 対 7 の信じられない試合の結果となった。こうして、倉敷工業 対 報徳学園 の死闘は終止符を打ったのだった。この死闘から、報徳学園は「逆転の報徳」の異名をとるようになる。
やはり、甲子園には魔物が潜んでいるのだろうか。
また、この試合は 「奇跡の大逆転」 として後世に受け継がれる事になって行くのであった。
新聞には、「倉工、継投に誤算」「報徳、ねばり勝つ」「大量の、先取点むなし」「選手に謝る、小沢監督」と出た。宿舎に帰った小沢。ふすまを開けると、思わず息を飲んだ。
つづく 随時掲載 

お願い
本文に、迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
報徳学園HP 「
奇跡の大逆転」
瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
ベースボールマガジン「高校野球 不滅の名勝負 3
協力
岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ7

1961年夏、第43回大会、大会3日目第3試合。
倉敷工業 対 報徳学園の試合は、両チームともに壮絶な戦いになって行くのである。
それでも、松本は「森脇を、森脇をおねがいします。」と指揮官小沢に必死に懇願するのであった。
すると、指揮官は「では、打って来い。森脇が投げられる状況を、お前が作って来い。」と。
こうして試合は、0 対 0のまま延長戦に突入。ここで、3塁側倉工アルプス席を見てみよう。

学生服を着て、鉢巻きをして両足を大きく横に開き、膝を90度に曲げて、握りこぶしを作り、左右交互に突き出している男子リーダー。女子生徒は、リズムに合わせて手拍子をして応援をしている。

こうして迎えた延長11回表倉工の攻撃。一死から2番中村が四球で出塁する。3番槌田の当たりは平凡なショートゴロ。当然Wプレーのケースだったが、二塁に投げた球がそれて、ライト方面に転がった。
それを見た中村は、一気に三塁に行き、一死一塁三塁。ここで、3安打をしている鎌田が打席に入る。
報徳学園沢井監督は、敬遠を指示し、一死満塁策を取った。ここで、5番松本が打席に入る。
松本は、第一球をフルスイング。その瞬間甲子園がどっと沸いた。打球は低いライナーでレフトの頭上を越えて、外野フェンス直撃の二塁打となり、中村と槌田が生還。倉工2点の先取点を上げる。ここで小沢にとって、今でも脳裏に焼き付いて離れられないシーンが展開されるのである。「二塁打を打った松本が、なんと二塁ベースの上に正座をして、両手を合わせて (監督さ~ん) と呼びかけた松本の姿に私は、心が震えました。」と。このシーンを、外野手の三宅は、ベンチから見ていて、鮮明に覚えていた。
「松本が、こうやって、こうして座って、(ワシが打ったんだから、文句はなかろうが)と言わんばかりのような感じだった。そして頼むから森脇に代えてくれ。と言うような松本の姿でした。」と言う。
その後、ショートゴロをバックホームした球が高くなり、フィリダースチョイスとなり3点目が入る。ここで左打席の白川が、スクイズを決めて4点目。さらに、永山が三遊間タイムリーで5点目。倉工の勢いはさらに続き、Wスチールまで決めて、6点目が入ったのである。この延長11回表、倉工は一挙に6点。日本中の誰もが「倉敷工業の勝ち」と思ったに違いない。森脇は、ベンチの横で岡田とキャッチボールをしている。この試合を、甲子園の魔物が見ていた。

つづく
随時掲載

参 考

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
ベースボールマガジン社「高校野球 不滅の高校野球3」
協 力 岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ6

第43回全国高校野球選手権大会 甲子園球場

組み合わせが決まった。昭和36年8月13日 大会3日目 第3試合。

相手は創部30周年という記念すべき年に、甲子園初出場を果たした、兵庫代表 報徳学園。

この時だ。ナイン待望の朗報が飛び込んできた。エース森脇が投球練習が可能となったのだ。

ナインは大喜び。意気と力の 溢るるところ、となって闘志の塊となって行く。

舞台は整った。役者も整いつつある。

8月13日 甲子園球場。この日何故か、第一試合、第二試合とも延長サヨナラゲームがあった。

この日甲子園球場は超満員。空席は見当たらない。一塁側に報徳学園、三塁側倉敷工業。

三塁側アルプス席を見てみよう。「ファイト 倉工」の横断幕が風にたなびいている。

男子応援リーダーがお揃いのユニホームで腕を振って鼓舞している。

倉工生は、帽子を右手に取り、右上から左下に右上から左下へと振っている。

まるで、神宮球場の早慶戦のようだ。こうして試合は始まった。

先発は倉敷工 永山 報徳学園は左腕の酒井。試合は緊迫した投手戦となった。

スコアーボードには0が並ぶ。ベンチに戻って来るたび、松本は小沢に「森脇を森脇をお願いします」と懇願。

しかし小沢は心を鬼にして「駄目だ ならん」と。そして、9回表倉工の攻撃。二死でランナーなし。

打席には4番鎌田。鎌田がレフト前ヒットで二死ランナー一塁。ここで鎌田が、ヘッドスライディングの盗塁を決める。

つづく打席には5番松本。松本がレフト前ヒット。鎌田、三塁ベースを蹴ってホームへヘッドスライディングで突入。

しかし、報徳レフト大野の好返球でタッチアウト。甲子園の土を握って悔しがる鎌田。

9回裏報徳の攻撃。二死ランナー三塁でサヨナラ機を迎える。打席にはこの日2安打の内藤。

この内藤を、永山は投手ゴロに打ち取る。永山はここに来て、やや疲れが見え隠れしていたが9回までに、報徳打線を散発4安打に押さえていた。

それでも松本は「森脇を、森脇をお願いします。」すると、小沢は「では打って来い。森脇が投げられる状況を作って来い」と。こうして試合は延長戦に突入した。

この試合の模様を、甲子園の魔物が見ていた。

つづく    随時掲載

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参 考   瀬戸内海放送          番組「夢 フィールド」

OHK岡山放送        番組「旋風よ ふたたび」

山陽新聞社           「灼熱の記憶」

ベースボールマガジン社     「高校野球不滅の名勝負 3」

協 力   岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ5

「朝起きて、新聞を見るとどの新聞にも、倉工が負けると出ているんです。8対2ぐらいですかね。
分が悪いと。それらの新聞を見て、試合はやってみないとわからんじゃろうが、と。野球は、強い方が必ず勝つとは限らないし。また、弱い方が負けるとも限らないし。それで、甲子園へ行けるか行けないかと言う最後の試合なんで、一発勝負すると面白いだろうなあと。その新聞記事に反発した様な感じでやりました。」と、語るのは成長著しい急造投手の永山。
実は、36年の倉工は、ある秘策を用意していたのである。その秘策とは、相手チームが予測出来ない事をやるんだ。と言うものである。そのために県外のチームとの練習試合で何回もテストを実施。ただし、中国地区のチームとは実施せずにいたのだ。いつやるか、どこでやるか。
それは「ここ本番で、1点のみと言う時に一発で決めるんだ。と選手と申し合わせていました。」と監督小沢の言葉にも気合いが入る。
昭和36年7月31日 鳥取県公設野球場 東中国大会決勝 対岡山東商
倉敷から、多くの応援団が鳥取へと向かった。試合は、倉敷工 永山、岡山東商 岡本の先発で好ゲームにはなったが、やや倉工が押し気味でもあった。
7回表、倉工の攻撃。二死(一死?)ランナー一塁、三塁のチャンスが来た。
「ここだ」 ベンチのナインもわかっていた。「ここでやるんだ。ここしかない。」自然と握りこぶしに力が入り、戦況を見つめるナイン。その時だ。小沢からサインが出た。
「行くぞ 今だ 行け 走れ」 「よっしゃあー」 見事に秘策が成功。その瞬間ナイン全員がガッツポーズをして、ベンチを飛び出した。また、三塁側倉工応援団も全員がガッツポーズをして湧き立った。その秘策とは、Wスチールだったのである。
小沢の奥深い戦術。先を見越した作戦。結局このWスチールが勝敗の決め手となり、3対1で勝利。春夏合わせて6回目の甲子園出場。2年ぶり3回目の夏の甲子園出場となったのである。松本が泣いた。全員が抱き合って泣いた。
「これで甲子園に行ける。森脇を連れて行く事ができる。」と。
外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだから、どうしても と言う気持ちが、東商さんより上回っていたんではないかと思います。」
主将の松本は、「全員が大舞台のマウンドへ、と言う思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と涙。
誰かが、松本に声を掛けた。「良かったなあ、松本」。
新聞には、「狂喜乱舞の倉工応援団」「東中国代表に倉敷工」「チームワークの勝利 小沢監督」と出た。舞台は整った。行くぞ夢舞台。大甲子園へ。
森脇と共に。

つづく   随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事を、ご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送     番組「夢 フィールド」

OHK岡山放送   番組「旋風よふたたび」

山陽新聞社         「灼熱の記憶」

協 力  岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ4

春夏合わせて、6回目の甲子園を目指す戦いが始まった。
その戦いは全部員が「森脇を甲子園に連れて行ってやろう、森脇を甲子園に連れて行くんだ。森脇と甲子園で戦うんだ。」と言う、熱い思いの戦いでもあるのだ。
ところが、森脇本人はベンチに入りたくなかったと言う。
「倉敷球場なんかで、予選が始まりましたわね。病院から帰って来て、ベンチに入るのがいやだったですね。ベンチに入りたくなかったですね。」と、森脇。

県予選の、一回戦は笠岡商業。この一回戦から延長戦に突入。外野手の土倉は「あの、笠岡商業との試合は、もう負けるんじゃあないかと、と思いました。」と話す。
長く苦しい延長戦を制した倉工は、二回戦から打線が爆発。あっという間に東中国大会へと駆け上がった。
当時は、岡山県から2校、鳥取県から2校で、甲子園切符1校を決める仕組みになっていた。
岡山県からの代表校は、岡山東商。甲子園まであと2勝。土倉はこう話す「中国大会に行ってからは、森脇を甲子園へという気持ちが一段と強くなった。」と。
しかし、どうしても越えなければならない山。
それは、強豪米子東。
この米子東を倒さないと甲子園に行けない事を、ナインは知っていた。
その米子東と最初にぶつかったのである。
昭和36年7月30日、鳥取県公設野球場。ナインは悲壮感を闘志に変えて戦った。打撃戦になった。
打撃戦なら倉工も負けていない。
倉工は3本のホームランを放った。
特に、森脇に「右鎖骨骨折」という大怪我をさせてしまったと、一人責任を背負っていた松本は狙っていた。
7回、快心の2塁打を打ち、猛打倉工の口火を切る。その大活躍は「神がかり的」と、称賛を浴びたのである。
永山と槌田の若きバッテリーは、米子東のスクイズを全て外した。
永山は「米子東の部長、監督は青ざめていた」と。
こうして、9対7で米子東の追撃を振り切ったのである。
ナイン全員の闘志あればこその勝利であった。
新聞には、「倉工3ホーマー」「松本 7回に殊勲打」と出た。

甲子園まであと1勝。
その夜の事。全員が寝ていると思っていたのに、誰か一人いない事に気がついた監督小沢。
宿舎中を探して、やっと見つけた背中。
宿舎の中庭で泣いている森脇だった。
「おまえ、こんな所で何をしているんだ」
「監督さん、今日ベンチいてたまりませんでした。明日倉敷に帰らせて下さい」
「この馬鹿たれが。おまえがベンチにいるから、みんな頑張っているんじゃないか。明日、お前がいないで、なんで勝てるか」と言ってなだめて森脇を寝かせた夜だったのである。
森脇は、投げられない自分への苛立ち。
森脇は一人重圧と戦っていたのではないだろうか。
こうして迎えた決選の日。相手は、向井監督が率いる岡山東商。
朝起きたナインは、驚いた。そして反発したのだった。

つづく  随時掲載

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参考
瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」
山陽新聞社   灼熱の記憶

協力
岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ3

1年生で、34年の夏の甲子園、国体と大舞台を経験して来たエース森脇。
今、3年生になって最後の夏に掛ける思いは、相当強かったはず。
また、全選手から、その信頼と期待は絶大であったであろう。
外野手三宅は、「森脇の球は速いというものではなかった。ものすごいスピードボールを投げていた。
あの森脇の球は、打てるわけがない。打てるもんか。」と、力を込める。それだけ森脇は左腕で素晴らしい投手であったのである。
ところが、事もあろうに県予選の直前に「右鎖骨骨折」というアクシデントに見舞われたのである。
全国屈指の好投手と言われたエースの突然の負傷。
しかも、県予選までに完治の可能性はない。
日数が足りないのである。
「これで、甲子園もおしまいか。」1年生から3年生まで、全選手に重苦しい空気が伝わった。
その時である。主将の松本が、全選手を集合させた。
そして、涙を流しながら、訴えたのだ。
「みんな、頼む。もしこの夏、森脇が投げられなかったら、ワシは生涯森脇に頭が上がらないんだ。みんな頼む。甲子園、甲子園へ。」と涙で。
すると、選手の顔が上がり始めた。
そして、全員が前を向いた。
「そうだ。森脇を甲子園に連れて行ってやろう。森脇を甲子園に連れて行くんだ。そして、森脇と共に戦うんだ。」全選手の心は一つに団結したのである。
三宅は、こう言う「松本の一声で、一致団結力が生まれた」と。
真に「意気と力の 溢るるところ」である。
こうなったら、打線の力で森脇を甲子園に連れて行こうと全員考えた。
2年生の永山は、控え投手ではあったが、三塁手。永山は、コントロールが良かったので、小沢は打撃投手をよくさせていた。
「永山、お前が投げろ。ただし、森脇の代わりで投げるのではなく、永山一個人として投げろ」と指示。
その永山は「県予選までは何日間かあったけど、投手としての経験としては浅かった。
しかし、小沢監督の指導もユニークで、速い球は投げるな。遅い球で勝負しろ。変化球は、こうして投げろ。
と色々アドバイスを受けた何日間でした。」「スライダーの握り方を教えたが、器用だったんで、すぐ覚えた」と小沢。
こうして、急造投手、永山が誕生したのである。小沢は、投球術と、配球術を教えた。
ところが、永山は一日一日、急成長し始めたのだ。
「もしかしたら」小沢の期待も膨らんだ。
こうして、2年生捕手槌田との若きバッテリーで、困難に立ち向かう事になったのである。
そして、松本の思いも板野の思いも、岡田、国方、中村、土倉、白川も全員が、「森脇を甲子園に連れて行くんだ」と言う強い思いを胸に、昭和36年の倉工の夏が始まろうとしていた。
新聞には、「痛いエース欠場。破壊力秘める大型打線」と出ていた。

つづく    随時掲載

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参考   瀬戸内海放送   番組 「夢 フィールド」

山陽新聞      灼熱の記憶

協力   岡山県立倉敷工業高等学校学校 硬式野球部OB会

昭和36年のドラマ2

「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、多くの関係者から高い評価を受けて、監督小沢の夢も大きく膨らんだ事だろう。
しかし、小沢は冷静にチームを分析していた。
「もし、チームがピンチを招くとしたらそれは、バントシフトが崩れた時。例えば一塁にバントをされて、一塁手と投手が譲りあったり、三塁側にバントをされて、三塁手と投手が譲りあったりした時にピンチがあると。それだけに、どちらでも取れる所に何回も転がして行って練習をしていたんです。打たれてピンチを招く事は、ほとんどないだろう。」と。
小沢の言葉にある様に、エース森脇は素晴らしい投手であったのだ。
3年生で外野手の三宅は「一球バントしたら、一塁に走る。一球バントをしたら一塁へ走る。この様な練習ばかりしていた。」と言う。
と、その時である。エース森脇と、主将で一塁手の松本がぶつかって、森脇が大怪我をしてしまったのだ。
その時の模様を、三宅は鮮明に覚えている。
「森脇がバントをして、一塁へ走って、松本がバント処理をして、タッチしたら、森脇が転んで、地面をクルクルと2回転した。それで、右鎖骨骨折をしたんです。」
当の森脇は、「足にタッチされたと思う。普段なら何でもないのに、私の足がもつれてしまって。松本がどうのこうの言うことではないんです。」と。
外野手の土倉は「あれは、7月1日で、合宿の最後の日。全員が疲れのピークに達していてのアクシデントであったと思います。もうこれで、甲子園は終わりだなと思った。恐らく全員が思ったと思う。」と。
2年生の、永山、槌田、高橋らは部室内で「えらい事になった。でもやるべき事はやろう」と話し合っていた。
小沢はこう話す。「監督の私にも大きな責任があるのだけれど松本においては、その後大きな負担をかけさせてしまった。監督さん、森脇を県予選までに、投げれるようにして下さい。もし、この夏森脇が投げられなかったら、わしは一生涯森脇に頭が上がらないんです。どうか、監督さんお願いします。と本当に涙して訴えて来たんです。」
一人責任を背負い込んだ松本であった。
しかし、どう見ても県予選までに日数が足りないのである。しかも、医者からは「森脇が投げられるのは、8月以降だろう。つまり甲子園に出ないでは、この夏森脇は投げられないだろう」と言われたのだった。
選手全員が、下を向いて黙っていた。
その時、松本が選手全員に訴えたのだ。大粒の涙を流して。

つづく   随時掲載

 

お願い   本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事を、ご了承ください

参 考   瀬戸内海放送  番組「夢 フィールド」

山陽新聞社      「灼熱の記憶」

協 力   岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会