大願成就 85熱闘甲子園の奇跡 32 最終回

この頃、倉工野球部OB会に派閥争いがあったのは事実。

昭和の時代、4季連続甲子園出場をはじめ、ベスト4三回、ベスト8二回など華やかな時代を知るOBにとって、ちょっと甲子園から遠のくと、どうしても現場の指導者に目が向いてしまうもの。筆者の私にも、「今の監督コーチらを代えて新しい監督スタッフで、甲子園を狙いたいんです。」との声を実際に耳にした事がある。監督和泉利典は、「ここで、甲子園に行かなければ、私も中山も辞めさせられたところだったんです。」と。
(高野連に、監督登録をすると、誰でも監督が可能)
和泉と、中山にとっては、まさしく背水の陣だったのである。それを見事、大願を果たした和泉と中山のコンビ。両名にとって、まさしく大願成就の甲子園出場だったのである。(このチームで、甲子園2勝)ここで、倉工野球部を称える、新聞記事を紹介したい。

【もう一度甲子園倉敷工に期待】
倉敷市62歳主婦
十二月二十三日朝、ゆっくり洗濯物を干していたら、十人ほどの白いユニホーム姿の生徒が、ビニール袋と火箸を持ち、缶拾いをしている姿が、目に止まった。
近くに練習場がある、倉敷工業高校の野球部員だとすぐにわかった。地域の環境美化にと、月に一度はしているらしい。みんなで取り組む、「ささやかな行為」の、「なんと大きなことか」と、とてもうれしく感じた。五月には、地域住民が出て一斉に川掃除をする。「ゴミは捨てないよう。みんなで、川をきれいにしましょう。倉敷市。」と、立て看板があっても、缶にペットボトル、弁当や総菜を食べた後の空き袋。果ては、自転車の投げ入れまでと。心のない人々の散乱の跡がある。
地域を愛する彼らも、切なく感じていることだろう。
声を上げてのシートノック。砂ぼこりを浴びての泥だらけの駆け込み。勉強と野球と家族の声援を胸に、ナイターまでして練習に励む青春。甲子園出場の夢をまた見させて下さい。神聖な運動場に出入りの態度。脱帽しているささやかな姿を。
大きな声で、挨拶してくれる君らの声を、エリアの住民は、よく知っています。
山陽新聞(平成16年1月9日)より。原文のまま

筆者の私は、この記事(コピー)を、部長中山隆幸から、譲り受けたのだが余白の部分に、本人の直筆で次のように書いてあった。
『倉工野球部を讃える記事。大変喜ばしい限りである。もっと、心を使おう磨こう整理しよう強くしよう必ずや、すぐにも甲子園に行ってみせる。そして、皆様のご期待に答えられるよう全力をつくす。精進野球部長中山隆幸』
この感動を残したい熱き心の選手たちが、創り出す数々の感動ドラマは、生涯忘れられない思い出として心に残るであろう。
監督和泉利典部長中山隆幸にとって、まさしく大願成就の甲子園出場だったのである。ちなみに、和泉は聖地甲子園で監督として7試合。中山は部長として7試合、監督として2試合、合計9試合を戦った事になる。伝統ある倉工野球部史において、和泉の試合数7は、歴代3位。中山の試合数9は2位という金字塔を打ち立てたのだった。

おわり

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 85熱闘甲子園の奇跡 31

当、HPは第85回夏の甲子園に出場した倉敷工の足跡をもう一度検証してみることにする。

【倉敷工8強届かず】

3回戦
倉敷工 000 000 000 0
光星学院100 010 000 2

倉敷工は、3回戦で光星学院(青森)に0対2で惜しくも敗れた。
エース陶山は、無四死球で力投したものの、相手投手の緩急をつけた巧みな投球に打線が、散発4安打と抑え込まれ、三塁を踏む事も出来なかった。
和泉利典監督は、「とにかく打てなかったですねえ。」
一方、中山隆幸部長は、「とにかく、打てそうで打てなかったんです。」とコメントした。

【最後まで逆転信じ】

三塁側倉工アルプススタンドを埋めた3千人の大応援団も戦っていた。
グランドの選手と一体となって、この試合も最後まで逆転を信じ大声援を送り続けた。先制点を許す苦しい展開を変えたいと倉工野球部3年石本勝志が、汗びっしょりになりながら大太鼓を打ち鳴らし続けた。
石本は、降雨ノーゲームになった駒大苫小牧との試合で、大雨による通行止めで、応援団が試合に間に合わず、8点差をつけられた段階で「もう、ダメかもしれない。」と、不覚にも泣き出してしまった。しかし、石本は諦めず、再試合で勝利した選手たちを見て「選手と一緒に戦っているという気持ちが足りなかった。」と気が付いたのだった。
石本は、「もう応援の手は止めない。」と心に誓ったのであった。

【応援団選手に心からありがとう】

逆転を信じる倉工スタンド。九回一二塁に走者を送ると総立ちになった。
最後の打者が、併殺に倒れると「ああー」という大きな悲鳴とため息が漏れたが、やがて大きな拍手に変わった。涙ぐむ人もいたが、多くは優しい笑顔でスタンド前に一礼する選手たちを迎えた。
「ありがとう」
「よく、やったあ」
慰労や感謝の言葉が次々とかけられた。
三塁コーチャー、そして伝令としてチームを支え、8回に代打で出た赤沢亮平の母親は「甲子園で打席に立つなんて緊張したでしょうね。今まで頑張ってきたから。」
また、応援団長西洋祐は、駐車場で涙が止まらなかった。
「ぼくらは、甲子園で応援できる幸せを貰った。選手たちには、心からありがとうと言いたい。」と話した。

―お知らせー

次回、32号で、山陽新聞に載った倉工野球部の活躍を讃える記事を紹介して『大願成就』を最終回とします。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 85熱闘甲子園の奇跡 30

当、HPは第85回夏の甲子園に出場した倉敷工の足跡をもう一度検証してみることにする。

大甲子園球場。三塁側倉工応援アルプススタンド最上部で、仁王立ちする男がいた。頭には、倉工応援団の鉢巻き。倉工学生服に身を包み、視線の先は、常にグランドに。いや、視線の先は倉工ナインに向けられている。
手には、伝統の応援団旗を持ち倉工ナインを鼓舞。しかも、素足のまま。
この、仁王立ちの男こそ、倉工応援団旗手古米竜士。
台風10号の影響で、強い風が吹く中、アルプス席の最上部で伝統の団旗を持ち続けた。台風10号の影響の突風で、掲げた応援団旗のポール部分が曲がってしまうアクシデントが発生。それでも、ポールを短くして団旗への風の負担を軽くして掲げ続けた。古米は、岡山大会からずっと団旗の担当。ダンベルで鍛えた両腕で、風をまともに受ける団旗をしっかりと支え続けたのだった。「今までで、一番重いです。」と古米。
何度もよろけそうになったが、球場最上段に設置されている看板に身体を押しつけて、必死に持ちこたえた古米。「風がきつくて大変だけど、選手も同じ条件。気合いを入れて踏ん張り、しっかりと持ちます。」と古米。
ノーゲームになった前日の試合は、高速道路の停滞などで駆け付けることができなかったが、「甲子園で応援する夢がかなってうれしいです。」と満足そうに話した古米竜士だった。

大甲子園に、球場アナウンスが轟く『岡山県代表倉敷工業高等学校旗手古米くん』
山陽子ども新聞の子ども記者5人が、倉工ナインを取材した。その中岡山市南輝小学校五年松岡優太君の記事を紹介します。

【応援団かっこいい】
ぼくは、倉敷工業高校応援団長の藤田真司さんにインタビューした。
取材するのは、初めてで応援する人がたくさんいて圧倒されたからドキドキした。応援団の団員は14人。「どうして、応援団になろうかと思ったのか。」と聞くと「かっこいいから」と答えてくれた。
大きな声で、全員心を一つにして、頑張っている姿を見て感動した。
応援する時は、「野球部とブラスバンド部の人と息を合わせることと、旗を正確に振る事に気を付けている。」と教えてくれた。応援団が持っている旗は、とても重そうに思えたが、応援団の人はしっかりと持っていたので、すごいなあと思った。練習は、六月中旬から本格的にしていたそうだ。毎日の練習の成果が出ていて、野球部、ブラスバンド部と良く合っていたと思う。ぼくも、将来応援団に応援してもらえるような野球選手になりたい。

(本文、ひらがなを漢字に変えています。)

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の新聞記事を参考にして一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 85熱闘甲子園の奇跡 29

当HPは、第85回夏の甲子園に出場した倉敷工の足跡をもう一度検証してみる事にする。

『岡山大会決勝』
7年ぶり信じていた。観客総立ち雨と涙の大歓喜。
「やったあ」「甲子園だあ」倉敷工の7年ぶりの甲子園が決まると、雨と涙でずぶぬれになった観客席の部員や保護者、OBら約300人は、赤青緑等の色とりどりのメガホンを、打ち鳴らしたり抱き合ったりして大歓声を上げた。

倉敷高ペースで進んだ序盤は、激しい雨に見舞われたが、生徒、保護者、OBらは3年生部員の石本勝志、松本眞澄の叩く太鼓や吹奏楽の演奏に合わせ、横移動する独特の応援で盛り上げた。
石本は、「選手を信じて魂のこもった応援をするだけです。」
3対5で迎えた六回表。畳みかける様な攻撃で、7点を奪取すると大声援がさらに一気に大きくなった。八、九回には倉工応援スタンドの全員が総立ちで、「レッツゴー陶山」の大コール。最後の打者を三振に打ち取ると、応援スタンドの全員の目が潤んだのだった。(朝日新聞、平成15年7月30日付けを参考に、一部を引用。)

『甲子園一回戦再試合』
よみがえった倉敷工。応援団喜び爆発。

倉 敷 工 012 101 000 5
駒大苫小牧 002 000 000 2

痛みこらえて、気持ち伝える。太鼓をたたき続けた。
倉工野球部応援団長石本勝志

「レッツゴー陶山。」一際大きな声が音頭を取った。身体ごとぶつける様な勢いで、叩かれる太鼓。地面が揺れた。スタンドが一つになった。ノーゲームになった前日の試合。「応援じゃあ完全に負けている。」台風の影響による、西日本を襲った大雨でブラスバンドも太鼓も甲子園にたどり着けなかった。序盤からの劣勢に、スタンドの座席に座り込んだ。「絶対に逆転します。」
そう言いながら、涙が止まらなかった。石本涙の甲子園。
部員として、練習試合に出る事もあったが、岡山大会前の六月。
応援団長になる事を指揮官に伝えた。何よりもチームが好きだった。この日は、曇り空だったが、太鼓があった。マメができても平気なように手袋をつけ、時々バチを持つ手を変えた。
だが五回には、肘と肩と手首が痛くなり、テーピングをして降り出した雨の中【気合い】で太鼓を叩き続けた。
会心の勝利にようやく見えた晴れ間の下、帽子を脱いで汗をぬぐった石本勝志だった。
(朝日新聞、平成15年8月10日付けを参考に一部を引用)

大甲子園に、球場アナウンスが轟く『岡山県代表倉敷工業高等学校応援団団長石本くん』

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 85熱闘甲子園の奇跡 28

「自分の心に勝てる者が、試合に勝てる。」と選手に対して心の指導をしてきた。そして「敵は、我にある。」と言い続けて来ました。
岡山大会決勝。五回裏終了のグランド整備の時、「勝つのは君らなんだ。出来る。信じよう。」と強く選手に伝えました。これは、倉敷工和泉利典監督の話である。
そして、心が繋がった結果が出たのだった。
『当HP。今回のタイトル(己に勝つ野球)は、和泉監督の指導や、談話から名付けました。』なお、今回28号からは、第85回夏の甲子園に出場した倉敷工の足跡をもう一度検証してみることにする。

倉敷工主将 須田洋光
(岡山大会決勝)序盤は、自分たちの野球ができなかった。打撃では、打てなくて悔しい思いをした。だけど、主将なので自分にできる事は、精一杯やろうと努力した。
倉敷工投手 陶山大介
出来ることを当たり前にして、先頭打者を確実に抑えた。焦りはなく、仲間が逆転してくれる事を信じていたので、点はやらないと思って投げた。
『ベースボール岡山2003年平成15年8・9号より参考、引用しました。』

第85回全国高校野球選手権記念大会岡山大会の戦績
倉敷工10―3古城池
3投手で、無安打に抑える。5回コールド

倉敷工2-0大安寺
3安打の圧勝。控えの2投手の継投で無失点に抑える。

倉敷工7―6
6回に逆転。陶山12安打を浴びるも完投。

準決勝倉敷工3―0関西
陶山が被安打2。9奪三振で完封。

決勝倉敷工10―7倉敷
6回、一挙7点を奪い逆転。そのまま逃げ切る。

倉敷工002 017 000 10
倉 敷120 200 011  7

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 27

第85回全国高校野球選手権記念大会第12日
倉敷工は、3回戦で青森光星学院に、0対2で惜しくも敗れた。
エース陶山は、無死球と力投。しかし、相手投手の緩球をつけた巧みな投球に打線が散発4安打に押さえ込まれ、三塁も踏む事もできず、8強入りはできなかった。しかし、約1万5000人の観衆から惜しみない拍手が送られた。
バックネット裏からは、『倉工また来いよ』『倉工いい試合を見せてくれてありがとう』の声が上がった。

倉敷工  000 000 000 0
光星学院 100 010 00x 2

一回裏、先頭打者。エース陶山は1球目をいきなり中前に弾き返され少し動揺した。
続く打者に送りバントを決められ一死二塁となる。
次打者は、左飛に打ち取ったが、4番打者に内角を狙ったスライダーが中寄りに入ったところを打たれ先制点を許す。
調子は、悪くなかった。だが、相手打線の振りは鋭く、甘く入った球を打たれる。そんなエース陶山をバックが盛り立てた。
二回裏、抜ければ長打という先頭打者の打球を、中堅手松本が懸命に追いかけジャンプして捕球。フェンスにぶつかって倒れながらもボールを離さなかった。
陶山は、松本にグラブを上げ「ありがとう」の思いを伝えた。
五回裏、二塁打を足がかりに、二死三塁から右前打で1点を加えられる。
七回裏、二死二三塁と攻められた場面では、伝令の赤沢がマウンドに駆け寄り陶山に笑顔で声を掛けた。「スタンドを見ろよ。あんなに沢山の人たちが応援してくれているよ。」陶山は、ぎっしりと観衆がつまった倉工三塁側アルプススタンドに目を向けた。
気持ちが落ち着いた。
次打者を、二塁ゴロに打ち取って切り抜ける。
岡山大会の準々決勝から一人で投げ抜いた陶山。
甲子園の一二回戦では四死球がそれぞれ4だったが、この光星学院戦では、ゼロ。
「みんなのお陰でここまで来れた。応援がすごかったので自分の力以上の投球が出来た。」試合後、涙をぬぐいながら真っ先に口にしたのは、チームメイトへの感謝の気持ち。
倉工三塁側アルプススタンドを埋めた約三千人の大応援団も戦った。
グランドの選手と一体となってこの試合も最後まで、逆転を信じ大応援を送り続けたのだった。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 26

第85回全国高校野球選手権記念大会
倉敷工VS今治西

倉敷工7年ぶり9回目の甲子園出場。今治西は、22年ぶり8回目の出場。
こうした名門同志、古豪同志の対戦は多くの観衆を集める。この日発表された観衆は、45,000人。それだけに、両校の応援合戦はすさまじい。
「スタンドは超満員でしたが、気持ちは余裕がありましたね。」と倉敷工中山隆幸部長。(中山は、部長、監督として甲子園で9試合を戦った。)
今治西の愛媛大会のチーム打率は、3割8分を超える強打のチーム。
一回戦で日大東北を3安打完封したエース豊嶋投手に対し、倉敷工は三回まで内野安打1本に押さえられていた。しかし、豊嶋投手を攻略できたのはマネージャー兼記録員の一宮周平の研究があったからである。

倉敷工 000 301 000 4
今治西 001 101 000 3

一宮は、宿舎で今治西のビデオを見ていた。
「初球はいつも甘い」相手投手の癖を見抜き、ナインに伝えた。
四回、須田洋光の打席。
一宮は、ベンチの片隅で試合前田中勇気に書いてもらった「魂」という字を握りしめていた。
「初球だぞ。初球を行け」その初球、須田は外角のストレートをフルスイング。
打球は、中前に。処理を焦った相手の失策を誘い逆転に成功。
「よっしゃ~」読みどおりの展開に一宮の握り拳にさらに力が入った。

新聞に『倉工鮮やか逆転』
『相手投手のくせ研究』と出た。

勝ちが目前に迫った九回裏。
二死から内野安打で、同点の走者が出た。

この試合、三度目の伝令に行った赤沢亮平は、ナインの顔を見た。
余裕のある笑顔を確認すると、三塁側を指して投手の陶山大介に言った。
「一人でやるな。俺たちは、勝つためにここにおるんじゃ。」

指先にある、超満員倉工アルプススタンドからは、「レッツゴー陶山」の陶山コールが、響いていた。
一呼吸置いた陶山はカウント3ボール2ストライクから、この試合一番のスライダーを決めた。
すると、バックネット裏にいた大観衆は、一斉に立ち上がって拍手をしたのだった。
倉敷工は、8強入りを懸けて、青森光星学院と対戦する事になる。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 25

五万観衆の歓声がとどろく。センターポールに緑の校旗がはためく。
折しも、沸き起こる校歌の吹奏。「水島灘の沖行く白帆も~」
大甲子園にこだまする勝利の賛歌。聞く度に、いいなあと思う。
(おいまつ会会員名簿より引用)
第85回全国高校野球選手権記念大会第9日目、二回戦春の四国大会優勝の強豪今治西と対戦した倉敷工は、再三のピンチを耐えながらチャンスでは見事な集中打を見せ4対3で逆転勝ちした。

倉敷工000 301 000 4
今治西001 101 000 3

1点を先制された四回表。倉敷工はビックイニングを迎える。
松本の安打。渡部の四球で一死一二塁とする。続く須田は一回戦に続き中前打。相手野手の失策もあり2者が帰り勝ち越し。清水も中前打で3点目。また、競り合いの展開では、アウトカウントを増やしても走者を先の塁に進めた方が効果的な時もある。その倉敷工の決勝点は、六回。
一死から、左前打で出た一塁走者を、バントで送った。
「併殺が頭をよぎったので、バントで得点圏に走者を進め、相手にプレッシャーをかけたかった。」と和泉利典監督。ここで萩原が、走者が二塁に進んだ事で浅めに守っていたセンターの頭上を抜く適時二塁打を放つ。倉敷工は、駒大苫小牧との一回戦でも、二回一死一塁から送りバントで走者を進め、先制適時打につなげた。
和泉監督は、「一死一塁からのバントは、うちにとっては通常のプレー」と話した。
そのランナー二塁のこだわりが、難敵今治西を倒したのである。
新聞に、『倉敷工粘った守った』『倉工鮮やか逆転』『倉敷工今治西に競り勝つ』等と出た。
三塁側倉工応援アルプススタンドでは、倉敷工倉敷南高松農の3校が合同で演奏した。倉敷工吹奏楽部柚木律子顧問が、97年に倉工に赴任した時、倉敷南顧問と「もし、甲子園に出たら合同で演奏しよう。」と約束を交わしていた。また、日頃から交流のある高松農も加わり合計約90人の部員が演奏を繰り広げたのである。
柚木顧問は、「7年越しの約束が実りました。」と満足そうに部員の演奏を指揮したのだった。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 24

ヒーロー赤沢亮平
大きな声で、勝利に貢献する倉敷工三塁コーチャー。
和泉利典監督から、甲子園でのベンチ入り選手が発表されるのと同時に背番号が配られた時の事だった。指揮官から「赤沢亮平」と呼び出された。すると、誰よりも大きな声で「はあい」と大声を上げ背番号14を受け取った。その大声が、仲間にも笑顔を与えた。
赤沢は、中学生の時「倉敷ビガース」のエースとしてチームを中四国大会優勝に2度導くなど大活躍。それだけに、ナインの心理状態や苦悩が、よくわかる選手。レギュラーの座は逃がしたが「チームの役に立ちたい」と側面からの支援に全力を注ぐ。
対駒大苫小牧戦。六回裏、無死一二塁のピンチ。顔をこわばせてマウンドに集まる内野陣のもとへベンチを飛び出し全力疾走で駆け寄った。
開口一番「いや~。昨日、彼女に振られちゃったよ。」一瞬の沈黙の後、内野陣に笑顔が戻った。「こんなピンチはどうってことない。何て事ない。何点取られてもいいから、野球を楽しもう。」直後、相手打線を2三振と盗塁死に抑え最大の危機を脱した。「野球は9人でやるものではない。」が持論。「力を抜け。」三塁コーチャーボックスから大きな声が途切れる事はない。指揮官からも「一番野球を知っている。」と太鼓判。
二回裏の攻撃で当たりは浅かったが、迷わず二塁走者を先制の本塁へと向かわせた。「センターがボールを弾くような気がした。だめでも次の回は俊足の大森だから。」後に、倉敷工監督に就く事になる中山隆幸部長は「チームを一つに、まとめてくれる。」と全幅の信頼を置く。仲間は「亮平は、10人目のレギュラー」と言う。
赤沢は、三塁を蹴って本塁に帰れるタイミングを研究。練習試合で外野手の肩の力と走者の走力を見て、回せるタイミングを探した。それには打球と走者が、一つの視野に入れる位置取りが大事であろう。
こうした赤沢を、大会のダイジェスト番組「熱闘甲子園」のキャスターを務める長嶋三奈氏が取材に来た。長嶋氏の父は長嶋茂雄元巨人監督。その取材の模様と試合で三塁コーチャーの中から、大声と右手をグルグル回すコーチャーぶりが「熱闘甲子園」の中で放送されたのである。
次の相手は今治西。「僕の笑顔でリラックスしてくれるのなら本望。これからも、選手のプレーしやすい雰囲気を作りたい。」と赤沢。
三塁コーチャーボックスが自分のポジション。背番号14赤沢亮平、なるべく長く甲子園にいたい。しかし、伝令に行きベンチに帰るとぐっと白球を握りしめ、バットにチラッと目をやる事もあったのはなぜなのだろうか。
【岡山県代表倉敷工業高等学校三塁コーチャーは、赤沢君】
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)
協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

大願成就 己に勝つ野球 23

第85回全国高校野球選手権大会2003年(平成15年)8月15日
阪神甲子園球場

倉 敷 工012 101 000 5
駒大苫小牧002 000 000 2

ノーゲームだった前日、抑え込まれた倉敷工が、駒大苫小牧エース白石投手を攻略。二回、西野の中前打で1点を先制。三回にも、須田の二塁打と敵出で2点。その後も、大森のスクイズで萩原がホームを踏み加点。エース陶山は、2失点と力投。駒大苫小牧は、三回に桑原の中前打で1点に迫ったが、好機で適時打を欠いた。

卒業後、社会人野球JFE西日本で活躍する事になるエース陶山大介が鋭い高速スライダーで強力打線に立ち向かい被安打6、奪三振9の好投。前日と別人のような出来に「立ち直りがすごい」との声が上がった。倉敷工は、2回戦(今治西)も突破し、35年ぶりの8強まであと1勝に迫る躍進。
(当HP大願成就で今治西戦も紹介予定です。)
2006年も決勝に進出するなど、全盛期を築いた駒大苫小牧にとって語り草となるゲームとなった。

『倉敷工投打にはつらつ』『スタンド興奮の渦』と新聞に出た。「あと一人、あと一人。」3点リードの九回裏倉工3塁側アルプススタンドでは、スクールカラーの緑色のチューリップハットをかぶり、燃えるような真っ赤なTシャツを身に着けた約2200人の大応援団から、赤と青のメガホンを打ち鳴らし、マウンドの陶山を後押しするように大声援が沸き起こった。最後の打者の打球を遊撃手渡部和博がしっかりとグラブに収め、須田洋光が一塁ベースを踏んだ瞬間、倉工ナインの勝利を祝福するかのように雨のばらつく曇り空から太陽の光が差し込んだのだった。スタンドの大応援団は、肩を組み合いあい、校歌が高らかに響き渡った。
つづく
随時掲載

お願い
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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」