この頃、倉工野球部OB会に派閥争いがあったのは事実。
昭和の時代、4季連続甲子園出場をはじめ、ベスト4三回、ベスト8二回など華やかな時代を知るOBにとって、ちょっと甲子園から遠のくと、どうしても現場の指導者に目が向いてしまうもの。筆者の私にも、「今の監督コーチらを代えて新しい監督スタッフで、甲子園を狙いたいんです。」との声を実際に耳にした事がある。監督和泉利典は、「ここで、甲子園に行かなければ、私も中山も辞めさせられたところだったんです。」と。
(高野連に、監督登録をすると、誰でも監督が可能)
和泉と、中山にとっては、まさしく背水の陣だったのである。それを見事、大願を果たした和泉と中山のコンビ。両名にとって、まさしく大願成就の甲子園出場だったのである。(このチームで、甲子園2勝)ここで、倉工野球部を称える、新聞記事を紹介したい。
【もう一度甲子園倉敷工に期待】
倉敷市62歳主婦
十二月二十三日朝、ゆっくり洗濯物を干していたら、十人ほどの白いユニホーム姿の生徒が、ビニール袋と火箸を持ち、缶拾いをしている姿が、目に止まった。
近くに練習場がある、倉敷工業高校の野球部員だとすぐにわかった。地域の環境美化にと、月に一度はしているらしい。みんなで取り組む、「ささやかな行為」の、「なんと大きなことか」と、とてもうれしく感じた。五月には、地域住民が出て一斉に川掃除をする。「ゴミは捨てないよう。みんなで、川をきれいにしましょう。倉敷市。」と、立て看板があっても、缶にペットボトル、弁当や総菜を食べた後の空き袋。果ては、自転車の投げ入れまでと。心のない人々の散乱の跡がある。
地域を愛する彼らも、切なく感じていることだろう。
声を上げてのシートノック。砂ぼこりを浴びての泥だらけの駆け込み。勉強と野球と家族の声援を胸に、ナイターまでして練習に励む青春。甲子園出場の夢をまた見させて下さい。神聖な運動場に出入りの態度。脱帽しているささやかな姿を。
大きな声で、挨拶してくれる君らの声を、エリアの住民は、よく知っています。
山陽新聞(平成16年1月9日)より。原文のまま
筆者の私は、この記事(コピー)を、部長中山隆幸から、譲り受けたのだが余白の部分に、本人の直筆で次のように書いてあった。
『倉工野球部を讃える記事。大変喜ばしい限りである。もっと、心を使おう磨こう整理しよう強くしよう必ずや、すぐにも甲子園に行ってみせる。そして、皆様のご期待に答えられるよう全力をつくす。精進野球部長中山隆幸』
この感動を残したい熱き心の選手たちが、創り出す数々の感動ドラマは、生涯忘れられない思い出として心に残るであろう。
監督和泉利典部長中山隆幸にとって、まさしく大願成就の甲子園出場だったのである。ちなみに、和泉は聖地甲子園で監督として7試合。中山は部長として7試合、監督として2試合、合計9試合を戦った事になる。伝統ある倉工野球部史において、和泉の試合数7は、歴代3位。中山の試合数9は2位という金字塔を打ち立てたのだった。
おわり
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)
協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」