春風爽快 キセキの春 29 最終回

第81回選抜高校野球大会 大会初日第一試合

金光大阪 210 120 003 001 10
倉敷工  100 301 013 002 11
平成21年(2009)3月21日
第81回選抜に出場した倉敷工。
試合は、リニューアルされた甲子園の開会式直後で、異様な興奮が、生き物の様に球場全体を覆う中で始まった。
両チームは、お互いに、1回から激しく点を取り合うサバイバルな試合を展開。
積極果敢な攻めと粘り強い守りで、先行する金光大阪に、倉工が、喰らいつく。
「諦めるな。どんな事があっても、諦めるな。」ベンチの倉敷工中山隆幸監督のゲキが、聞こえて来るような熱戦。結局、延長12回劇的なサヨナラ勝ちを、決めたのだった。その、試合直後の事。


倉敷工業高校の事務室に、1本の電話が入った。電話の主は卒業生でもなく、倉工関係者でもなく、全く面識のない人からだった。
その人は、ガン患者だった。
選抜での倉工の決して諦めない逆転劇を見て感動。
「病気と戦う勇気を、貰った。」という。
「どうか、中山監督をはじめ、選手の皆さんや、関係者の皆様に、どうぞよろしくお伝え下さい。」と、ていねいな、言葉を残して、電話を切ったという。
一方、中山監督にも、別のガン患者から、同様な、お礼の言葉が寄せられたのだった。
「思い切り振り切れ。」春の選抜で、鮮やかなサヨナラを生んだ「あの一球」には、中山監督と、球児たちの熱い信頼の物語が、秘められていたのだ。
オフの長く、地味な打撃練習が、春の光の中で鮮やかに、花を咲かせたといえよう。
にわか仕込みの、甲子園戦法より、平素から培った、自己能力の、認識が重要なのだ。
倉工は、晴れの舞台センバツでその事を、鮮明に見せた。
新化を続けた倉工が、ドキドキする感動ドラマを、また伝えてくれた。

おわり

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 28

想えば、全盛時代の、昭和30年から40年代。小沢監督率いる倉工は、強打力で鳴るチームだったが、「バント」「走塁」にも、絶妙の技があった。連打で、大量点を奪う一方、1点勝負の場面では、ノーヒットでも点を取ってみせた。ライバルの、岡山東商監督の向井正剛氏が、後日談で「小沢さんに負け、悔し涙を流した。おかげで、多くの事を学んだ。」と語っていたあの日が懐かしい。

今回は、ベスト8に進めず、残念ながら快進撃とはいえなかった第81回選抜の倉敷工。全国の強豪校相手に、一回戦は延長12回劇的なサヨナラ勝ち。二回戦は、前半の大量失点を激しく追撃したが、わずか1点差で惜敗。中山隆幸監督率いる倉工の選抜は、1勝1敗に終わった。しかし、その野球は、決して『諦めない』『勝負を捨てない』ものだった。秋の中国大会から続く、チームの進化が物語るものでもあった。『ハラハラ』『ドキドキ』。握りコブシが何度も硬くなった。だが、倉工ナインは諦めていなかった。過去の栄光に満ちた「強打の倉工」は、「諦めない倉工」の名で、見事に、今、伝統の復活を遂げた。
感動に満ちた甲子園ストーリーと言えよう。

甲子園大会では、大会役員が各チームに一人ずつ付き添う事になっている。試合終了後の事。その大会役員を先頭に一列に並んでグランドを出る時だった。「バックネット裏の、大観衆が、総立ちで、拍手喝采だったんですよ。」と中山監督。一方、ナインは、ある物を見つけたのだった。ナインが見た物。それは、【倉工魂】や【侍倉工】の看板だった。ナインは、足や身体が震えたという。また、スタンドからは「また、来いよ」あるいは「すげえ試合を、また見せてくれよ。」と。「本当に嬉しかったです。感無量でした。」と指揮官。感動に満ちた甲子園ストーリーは、さらにつづく。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 27

第81回選抜高等学校野球大会。(34年ぶり10回目)

金光大阪 210 120 003 001 10
倉敷工  100 301 013 002 11

中京大中京 230 100 000 6
倉敷工   010 004 000 5

第81回選抜に出場した倉敷工。「強打の倉工」の活躍は、もう遠い記憶になっていた。後に、監督となる小沢投手を擁して初出場した昭和24年の夏の甲子園でベスト4に進出。
(当、HP。カテゴリーの中風雲の奇跡初陣倉敷工を参照して下さい。)
その後、倉工全盛時代が続き、春夏合わせベスト4進出3回。
今回の選抜で、19回目の甲子園出場である。
倉工は、地元の倉敷マスカット球場で開催された秋季中国大会を、37年ぶりに制覇し34年ぶりの選抜出場を決めたが、その中国大会には、県大会4位出場資格ギリギリで出場。
2回戦で、県大会覇者の作陽を大差で破って勢いに乗り、準決勝で鳥取城北、決勝で南陽工をそれぞれ下し、見事優勝を飾った。倉工は、粘り強さが身上の実戦的攻撃のチーム。県大会から中国大会にかけ、試合ごとに進化を続けたフレッシュなチーム。倉工監督一年目の中山隆幸監督は、一試合一試合を「どんな事があっても諦めるな。」「死ぬ気でやり切れ。」という精神面で、負けない元気野球を目指し頂点に立った。県大会4位のチームが、中国大会で優勝した記録はない。私、当HPはこのチームの練習をよく見に行ったものである。指揮官は、普通のノックはやらない。常にランナーとアウトカウントを置き、ギリギリでアウトを取れるかどうかのタイミングで放たれる。プレッシャーの中での集中力が狙いであろう。
打撃では、「高め」と「外角」が中心。指揮官は「思いっきり振り切れ」高めでも、ゴロを打つ技術の習得を目指していた。
「強打」と「多彩な攻撃力」が、倉工の身上である。
当HPでは、この第81回選抜高校野球大会出場の倉工チームにあった、出来事をさらに振り返ってみる事にする。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 25

第81回選抜高校野球大会。開幕試合で、壮絶な試合を制した倉敷工。次の2回戦の相手は、今大会№1の打率を誇る中京大中京。
実はこれより34年前、昭和50年第47回選抜大会の開幕試合で対戦し、倉敷工が16対15で勝利。
この試合は「球史に残る開幕試合」として今でも語りとして残っている。当HPでは、すでに「風雲の奇跡涙の甲子園」で紹介しているが、再度振り返ってみる事にした。
(当、HP。カテゴリーの中、風雲の奇跡涙の甲子園を参照して下さい。)

倉敷工005 801 011 16
中 京101 450 310 15

当時の倉敷工オーダー
1.二 安本
2.右 松島
3.一 樋口
4.投 兼光
5.捕 大元
6.中 大倉
7.三 石原
8.遊 神土
9.右 野田

中学3年生の少年は見た。
「ものすごいバッティングにくぎ付けでした。そして、純白のあのユニホームが、もうすぐ着れるんだと思うと、嬉しくて嬉しくて。」
その少年は、甲子園の一塁側アルプススタンドで入学が決まった倉敷工の試合に胸を躍らせたのだった。その少年こそ母校倉敷工野球部監督として、二度の甲子園出場を果たし7試合を戦った和泉利典総監督である。(現在、水島工野球部総監督)

昭和50年3月28日、阪神甲子園球場。
前年、秋の中国大会で準優勝した倉敷工は、優勝校広島工と共に、九回目の選抜出場を果たした。
この時の、入場行進曲歌手森昌子の「おかあさん」のメロディーで開幕。
開幕試合で強豪中京と対戦。中京は、昭和42年に校名を中京商から改めて以来の出場だった。
好カード。最初から乱打戦のシーソーゲームが始まった。
倉敷工エース兼光は、防御率0点代で甲子園に乗り込んだのだが、甲子園入りしてから40度の高熱を発症していた。
三回、長短打にスクイズを織り交ぜ5点を奪うと、四回は野田の左超え3ラン等で一挙8点。13対2と中京を突き離した。エース右腕兼光は、高熱のためフラフラになりながらもマウンドに立っていた。13対2と全く勝負あった感じだったが、その劣勢を跳ね返して、喰い下がったのはさすが中京。五回、三連打で兼光をノックアウト。代わった一年生の塚岡から近澤がライトへ安打。これを、右翼手についていた兼光がエラーをする等、この回5点を加えた。石原(倉工)近澤(中京)のホームランの応酬で、七回にはついに同点。15対15の九回表。二死二塁で、この日3打席無安打の3番樋口を小沢監督はベンチに呼んだ。『3打席ノーヒットなんだから、初めて打席に立ったつもりで行け。』と指示。すると、左打席の樋口は、決勝の左超え二塁打を放ち16対15で逃げ切った。
両チーム合わせて、3本塁打29安打が飛び交った。
(一年生のショート)神土秀樹コーチは、「兼光さんが、熱があった事は知りませんでした。そして、中京はよく打つなあと思っていました。」
一方(当時の)小山稔コーチは、「エースで4番の兼光を中心として、非常に高いレベルで投打にまとまっていたチームでしたね。」
「兼光の投球フォームは、投手としては程遠いものでしたが正しい投球フォームにすると兼光が投げられなくなってしまいますから本人に任したんです。」
「九回、樋口のレフトオーバーは差し込まれたんですが、力でレフトオーバーに繋げました。」
こうした歴史と伝統がある倉敷工と中京大中京。
(第81回選抜高校野球大会。)2回戦の相手は、強打中京大中京。
倉敷工山崎早藤の投手陣対強打中京大中京の勝負だった。

つづく
随時掲載

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本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 24

流れ変えた背番号11早藤達哉投手。
金光大阪210 120 003 001 10
倉敷工 100 301 013 002 11
敗色濃厚だった流れを変えたのは、「背番号11」だった。
九回、3点を奪われなおも二死一塁。制球に苦しむエース山崎を継ぎ、マウンドへ向かった。
「相手の勢いを絶てばチャンスはある。」
いきなり、安打を浴びたものの、追加点を与えず3点差で裏の攻撃へ繋げた。
流れは、自らのバットで引き寄せた。九回、無死一塁三塁。
甲子園での初打席。足の震えが止まらない。バットを、何度も振り「つなぐバッティング」と、書いた左手袋に目をやって、右打席に入った。
中山指揮官から、【決めて来い】と言われ1球目から思いっきり振った。
初球の内角ストレートを、叩きつけ、三遊間のど真ん中を抜き、レフト前ヒットで、1点を返した。この一打が、同点劇の、呼び水となり、試合は延長戦へ。息もつけない攻防が、始まった。
十回以後は、我慢の投球。十一回には、二死二塁三塁から、四球を出し、二死満塁のピンチを、次の打者を平凡なレフトフライでしのいだ。
十二回に、センター犠牲フライで、勝ち越されたが、1点差で、踏ん張った。
延長の3回で4安打2四球と走者を許したが、1失点。
劇的な幕切れをお膳立てしたのは、この『粘投』だった。
チームを救った右腕は、仲間の祝福の中ではにかんだ。
指揮官は言う。「早藤と、心中するつもりでした。」
三塁側倉工応援アルプススタンドを、盛り上げたのは、倉敷工吹奏楽部。
玉島商からの友情応援18人。倉工OB8人を加え、総勢40人に膨らんでいた。
テンポの良い、(サウスポー)等で盛り上げ、ほぼエンジ色一色のスタンドの中、赤と緑のメガホンが大きく揺れ、大歓声を響き渡らせチームを後押しし、激的なサヨナラ勝ちに、繋げたのだった。
次の、2回戦の相手は、中京大中京。実は前回34年前、昭和50年選抜の開幕試合で対戦し、倉敷工が16対15で勝利している。
次回、春風爽快25号でその時の試合を振り返ってみたい。(当、HP。カテゴリーの中、風雲の奇跡涙の甲子園を参照して下さい。)

9回裏倉敷工1死一、二塁7、山形が右翼線三塁打を放ち9-9の同点とする。


12回裏倉敷工2死一、三塁、日下の右前打で三走・三村が生還し11-10でサヨナラ勝ち



つづく
随時掲載

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山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 23

「緊張感を、力に替えろ」
中山監督のゲキが、飛んだ。
第81回選抜高校野球大会。開幕試合。

金光大阪 210 120 003 001 10
倉敷工  100 301 013 002 11

倉敷工オーダー
捕  頼
中  井上
遊  三村
二  三木
一  日下
三  内山
投  山崎
投  早藤
右  山形
H右 内田
左  岡田
代走 池田
左  山本

4回裏。3点差を追う倉工は、3番三村が2死二三塁から左越えに3ランを放ち、4対4の同点に追いつく。積極果敢な攻めと粘り強い守りで、先行する金光大阪に食らいつく倉工。「諦めるな。」「どんな事があっても諦めるな。」中山監督の檄が聞こえて来る様な熱戦が続く。
6対6で迎えた9回表。金光大阪は、3本のヒットと、悪送球を絡め決定的ともいえる3点を奪い、倉工を突き放す。
試合巧者の金光大阪にしてみれば3点は大きい。
だが、倉工は諦めない。
9回裏の倉工。四球出塁の日下が、果敢な盗塁を決めると、内山、早藤、山形の下位打線が3連続タイムリー。土壇場で、3点を奪い9対9の同点。
まだ、1死でランナー山形が三塁に残る。
打者山本の場面。倉工ベンチは、スクイズで勝負に出るもホームのクロスプレーで主審の「微妙なアウト判定」があり延長へ。
延長12回、再び試合が動く。
この回、1点を奪われた倉工は、相手エラーと、2番井上の絶妙のプッシュバント。
3番三村のセンター前ヒットで1死満塁。
ここで、ヒットのなかった4番三木が、気持ちで一二塁間を破ったタイムリーで同点。
5番日下は、外角高めのストレートを完璧に捕らえライトへヒットを放ち劇的な、サヨナラ勝ちを収めた。
力を出し切って戦った両校。
歓喜に湧く、倉工応援アルプススタンド。地鳴りのような歓声が響き渡った。
歓喜のあまり涙を流す女子生徒。これは、34年ぶりの執念か。
そして、選抜34年ぶりに、肩を組んで校歌を歌ったのだった。


けがから復帰し、懸命のプレーを見せる岡田選手


延長12回裏倉敷工2死一、三塁、日下が右前へサヨナラ打を放つ


劇的なサヨナラ勝ちをおさめ。春34年ぶりの校歌を大合唱する倉敷工応援席


開幕試合を逆転サヨナラで制し、大喜びで応援席に向かう倉敷工ナイン

 

つづく
随時掲載

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山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして一部を引用しています。)

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

 

春風爽快 キセキの春 22

真っ青な大空。紺碧の空に向かって、開会式を告げるファンファーレが鳴り響いた。
第81回選抜高校野球大会。
阪神甲子園球場。
先導は、大阪府警察音楽隊、フレッシュウイングス。小旗を振って入場。続いて、近畿6府県警察音楽隊が、今大会の入場行進曲『キセキ』を、演奏して入場。
この『キセキ』は、2008年、高校野球を題材とした、TBS系テレビ『ROOKIES』の主題歌である。多くの若者が共感して、人々に希望を与えられる歌として、選ばれたのだった。
前年、優勝の沖縄尚学。準優勝の、聖望学園に、続いて出場32校が、南から順に入場。倉敷工は、9番目に入場。
「倉敷工業高校。岡山。34年ぶり10回目。」と、場内放送。
すると、3塁側倉工大応援団から、大きな拍手が送られた。そして「がんばれよ」「たのむぞ」の、声があちらこちらから上がった。
一方、NHKテレビでは、「県大会4位ながら、中国大会で優勝。センバツ出場を、果たしました。開幕試合に登場します。実は、前回34年前の開幕試合で勝っています。」そして、女性アナウンサーが「3塁側は、もう一杯になっています。」と紹介。
プラカードは、出場校の生徒が持っている。倉敷工のプラカード【倉敷工】は、倉工野球部西野雄貴。中山監督が「プラカードは、おまえら選手同士で話し合って決めろ。」と、指示して西野に決まったという。西野は、大会本部から支給された純白の野球帽に、倉工学生服姿。帽子には(81)のマークが見える。
西野のプラカードは、一寸のブレもなく倉工ナインを誘導し、堂々の入場行進で大役を果たす。
全チームが揃ったところで、大会会長らが挨拶。そして、今治西の高市主将が、選手宣誓。西宮市高等学校吹奏楽連盟が『大会歌今ありて』を演奏して、神戸山手女子高校が『今ありて』を合唱。
「ああ甲子園草の芽萌え立ち駆け巡る風は青春の息吹か」選手、大観衆は、どんな思いで見守ったのだろうか。
倉工は、センバツ出場を記念して、エンジ色のジャンパーを作成。
左胸に【倉工】背中には【燃えろ倉工】。そして【倉敷工業高等学校】。
ほぼ、エンジ色一色で埋まった倉工応援スタンド。
さらに、緑色赤色のメガホンが映える。
【燃やせ闘魂倉工球児】【必勝岡山県立倉敷工業高等学校】の横断幕が、倉工ナインの背中を押す。 

つづく
随時掲載 

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています。) 

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」 

春風爽快 キセキの春 19

「甲子園は、最初からそんなに意識していなくて、たまたま運よく行けたものですから。」
「(当時は)テレビはないし、絵はないし。あるのはラジオから聞こえてくる大歓声だけで。」
「甲子園は、あの前に立っただけで、こんなに大きな建物かと、びっくりして。中に入って練習の時、こんなに大きなグランドなのかと、びっくりして。そして、開会式の時、こんなに大勢の人なのかと、びっくりして。」
「試合になった時あの大歓声で、第一球はどこに投げたのか、わからない状態でした。」 こう話すのは、倉敷工元監督小沢馨氏(故人)。2005年KSB瀬戸内海放送で、放送された、『夢フィールド』という番組で、御出演された小沢氏が、述べたお言葉である。【当、HP。カテゴリーの中、風雲の奇跡初陣倉敷工を参照して下さい。】

甲子園は、何もかも大きい。そして大歓声。勝敗のカギを握るのは、内外野の連携プレー、カバーリング、そして走塁であろう。
甲子園の、広さを体感しようと、倉工ナインは、3月11日、倉敷市鶴の浦にある、社会人野球JFE西日本が練習するJFE健保球場で練習した。(現在JFE健保球場は、ありません。)
倉工第2グランドの、約2倍の広さとあってナインは戸惑い気味だった。練習前、中山隆幸監督は、「練習は、ウソをつかない。」とナインを激励。しかし、守備練習ではエラーが続出した。
辻田浩一副部長は、「ボールの返球や走塁のタイミングが合わず、新しい課題が見つかりました。」と険しい表情。
外野手の山形直哉は「久しぶりの球場練習で走塁の判断がつきにくかった。早く慣れて甲子園では、100%のプレーをしたい。」と意欲を見せた。練習終了後、ナインは主将頼宏樹を中心として、30分いや1時間近くミーティングをしたのだった。
「あの時のミーティングは、頼を中心に長くやっていましたよ。」と中山監督。倉工ナインは、さらに倉敷マスカット球場でも練習試合を行い、広い甲子園に対しての感覚を、磨いたのだった。

行くぞ。34年ぶり10回目のセンバツ。第81回選抜高校野球大会。
待ってろよ。阪神甲子園球場。

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」

神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」

和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」

中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 18

『粘り強くまず一勝を。生徒らナイン激励』
『壮行会でセンバツ旗。頼主将の手に』
(2009年平成21年)3月10日付山陽新聞、毎日新聞に、大きく報じられた見出しである。
第81回選抜高校野球大会に出場する倉敷工野球部の、壮行会が、倉工体育館であり、倉工ナインが、大舞台での活躍を、誓ったのだった。壮行会には、全校生徒約700人が出席。毎日新聞岡山支局長から、福田憲治校長に、渡された校章入りのセンバツ旗が福田校長から、頼宏樹主将に、手渡された。福田校長は「粘り強く思いっきりのいい倉工野球で、まず一勝し、地域の期待に、答えてほしい。」と、激励。出席した倉敷市伊東香織市長から「倉工復活を、みんなが応援している。優勝を目指して下さい。」と、エールが、送られた。そして、宮野義治部長が、ベンチ入り18選手を一人ずつ紹介。中山隆幸監督が、出場までの経過を報告した。
そして、全員で校歌を斉唱し、応援団から盛大なエールが送られた。
頼主将は「一年生大会では、悔しい敗北を味わい甲子園を遠く感じた。しかし、諦めずに一所懸命に毎日練習をし、念願の甲子園出場を果たせた。感謝の気持ちを、忘れず中国地区代表の名に恥じないプレーで、一戦一戦戦って来ます。」と、決意を述べ、大きな拍手を、浴びながら倉工ナインは退場した。
倉敷工は、岡山4位校として、臨んだ昨年秋の中国地区大会で、37年ぶり3回めの優勝。早いカウントから、積極的打撃で、全4試合二ケタ安打。エース山崎主記を軸に、粘り強く守った。
ベンチ入り18選手紹介
部長宮野義治
監督中山隆幸
(投)山崎主記
(捕)頼宏樹
(一)日下太希
(二)三木大知
(三)内山祐人
(遊)三村延寛
(左)岡田直也
(中)井上裕太
(右)山形直哉
(控) 吉田直希
早藤達哉
片山 僚
廣田 俊
池田郁弥
神浦拓矢
内田貴之
内田修平
山本篤貴

つづく
随時掲載

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参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」

春風爽快 キセキの春 17

34年ぶり10回目の、選抜高校野球大会出場を、決めた倉敷工。
岡山県下で、春夏通算甲子園最多勝利数24を誇る伝統校は、長い雌伏の時を経て、ついに夢舞台への切符をつかむ。
「まさか、ここまで来れるとは。」と、エース山崎主記。チームは、昨年秋の県大会4位校ながら、開催県枠でギリギリの中国地区大会に出場。
準々決勝で作陽。準決勝で鳥取城北と強豪を撃破して波に乗ると、決勝で南陽工を4対1で下し37年ぶり3回目の優勝を果たす。
こうした野球部の活躍があっての選抜甲子園への出場であるが、当HPは、ある事に着目した。それは、出場校選考基準。正式には次の通りである。
【選抜高等学校野球大会出場校選考基準】という。厳正、公平に出場校を選考するものであろう。全部で5項目あるが、その中第3項目に注目した。『3、校風品位技能とも高校野球にふさわしいもので、各都道府県高校野球連盟から推薦をされた候補校の中から地域的な面も加味して選出する。』とある。(原文の、まま引用しました)
この中で、「校風」「品位」という文字がある。永く、重い伝統のもと野球部の活躍と同時に、「校風」「品位」も評価されての選抜甲子園出場がうれしい。
「伝統校としての誇りを胸に、目標の一勝を目指して倉工生らしくはつらつと、戦います。」と、主将の頼宏樹。一方、エース山崎主記は「甲子園のマウンドは、楽しみ。仲間を信じて思いっきり投げたい。」と笑顔を見せた。また、監督中山隆幸は「感無量。最後まで諦めず粘り強さがチームの強み。本番まで、心技体を、さらに高め県中国地区の代表として恥ずかしくない試合をしたい。」と。
「校風」「品位」も、評価されての、34年ぶり10回目の選抜出場。
第81回選抜高校野球大会。こうして、地域も、学校も、おいまつ会もおいまつ会役員も、慌ただしさを増して行ったのだった。

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」