捲土重来復活への道29最終回

平成元年は、決勝で涙。二年は、準決勝。三年は、3回戦で敗退。
甲子園は、近いようで遠かった。「華々しい時代を、知っているだけにイライラし通しだった。」と、倉工ファン。平成五年、甲子園出場経験のある、OBの藤原勝利と永山勝利が、コーチに就いた。さらに六年、倉敷工在学中、監督の和泉利典と、共に白球を追った中山隆幸が、凱旋し部長に。倉敷工野球部出身の和泉と中山。
二人とも現役時代、甲子園出場を果たせなかっただけに、ひのき舞台への、思い入れも強い。「選手のため。応援してくれる人達のためにも頑張りたい。」と、和泉と中山。こうして、和泉をサポートする体制が、出来上がったのだった。大きな転機だった。まず、新体制が手をつけたのは、『習慣』の撤廃。例えば、グランド整備は下級生のみ。「いつの間に、意味のない習慣が増えていたのか、と驚いた。」と、永山。OBコーチの、藤原と永山は、『グランドでは厳しく練習以外では、仲間。』という意識を、植え付けた。指導方法も変化させた。中山は、メンタルトレーニング、ウエートトレーニングを本格的に導入。さらに、栄養学も取り入れたため、選手たちの基礎体力が、みるみるうちに、アップした。「力のある選手を集め、技術練習で強くする事ばかり考えていた。」と、和泉。甲子園出場実績は、もとより県内でも、実績のない学校の監督を努め『力のない選手を、いかに伸ばすか。』に、腐心して来た中山の指導は、大きな刺激となった。
技術指導は、和泉。野球に対する心構えは、藤原と永山の両コーチ。コンディショニング、メンタル面は、中山。すると、新体制の歯車が、がっちりと、かみ合い始めた。さらに、目標は高く設定した。
それは、『全国制覇』。「常に甲子園に出るチームは、全国で勝つという、意識を持っている。目標を、甲子園出場に置くと、途中で息切れをしてしまう。」と、和泉は、説明する。結果もついて来た。
昨夏(平成7年)は久々にベスト4。優勝した関西を、最後まで苦しめた。そして、平成8年の夏、苦しい試合を一つ、また一つと、ものにして行きながら、古豪は、力強く復活を果たした。これぞ【捲土重来】七月二十九日、倉敷マスカット球場。優勝を決めた直後のインタビューで、和泉は、声を詰まらせた。そして泣いた。「あくまでも、目標は
全国制覇。十年かかっても、いや、それ以上かかっても。」主将の北條は、優勝旗を手に、力強く言い切った。先輩たちが、成し遂げられなかった大きな【夢】に向かって、よみがえった名門が、力強く羽ばたき始めた【平成8年の夏】。倉工の玄関には、倉敷工野球部の、業績を記した額が、かかっている。一番左に、『二〇〇九(平成二十一年三月)第八一回選抜高校野球大会出場二回戦開幕試合史上初金光大阪に延長逆転サヨナラ勝利』と、書かれている。まだ、その左には、余白がある。今度は、どんな文字が書き込まれるのだろうか。

捲土重来最終回

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参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

捲土重来 復活への道 28

夏9回、春10回の甲子園出場を誇る県内、いや全国屈指の名門倉敷工。
19回の、甲子園出場のうち、ベスト4四回(昭和24夏、昭和32春、昭和43春、夏)。ベスト8は、二回(昭和47春、昭和49春)全国の強豪校として名を馳せ、甲子園での、通算成績は25勝19敗と輝かしい戦績を誇る倉敷工。
この25勝は、現在県最多勝利数である。四十二、四十三年は四季連続出場「当、HP。カテゴリーの中、青春ヒーロープレイバックを参照してください。」を、果たすなど、また、三十年から四十年代にかけては。岡山東商と共に県内二強時代を築き、県高校球界をリードして来た。ところが、五十年代に入ると、普通科志向の、強まりからいい選手が、集まりにくくなった。また、スポーツに力を入れる学校も増え、岡山南や玉野光南そして岡山城東など新勢力も台頭。『勝てない』『選手が集まらない』と、言う悪循環。選手の気質も変わり厳しさ一辺倒の指導では、通用しなくなってきた。名門であるがゆえに、これまでの指導方法、あるいは、気質から脱却できないまま、じりじりと低迷へと追い込まれて行った。夏の大会で、57年は1回戦を、突破したが58、59年は連続して、初戦で姿を消すなど、低迷状態が続いた。和泉利典が、倉敷工監督として、チームを預かったのは、そんな時代の変わり目の、真っ只中の、昭和59年秋。
伝統校も、甲子園から十五年以上、遠ざかっていた。【ぜひとも、古豪復活を】OB、ファンは和泉へ期待が集まった。和泉は、力のある選手を集め、熱血指導で、就任二年目の、昭和60年夏県大会準決勝へ進出。身長168㎝2年生の、エース左腕石井厚志を擁し連続無失点47イニングを達成。手応えを感じていた時、OB塩田富士夫が、監督に着任した。和泉は、コーチに退く事に。
当時、和泉は26歳。翌昭和61年夏、エース石井の、抜群の制球力と、キレのあるカーブを武器に力投で、倉敷工は、岡山大会を制し、実に18年ぶりの甲子園出場を勝ち取る。和泉は、手塩にかけた選手たちの活躍を喜ぶ一方で、「複雑な気持ちもありました。」と打ち明けた。甲子園では、初戦で秋田工に、1対11で敗れたものの倉敷工にとって悲願の【古豪復活】になったと思われた。だが、翌夏から再び甲子園は遠のいた。そして、平成元年再び和泉が監督に返り咲く。満を持しての再スタートだったが、やはり『あと一歩』の状態が続いた。「何が足りないのか」やがて悩み苦しむ和泉に、転機が訪れる。
つづく
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山陽新聞社「灼熱の記憶」
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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

捲土重来 復活への道 27

よみがえった全国屈指の名門倉敷工。倉敷工10年ぶり8回目の甲子園出場。全国に、その名をとどろかせた名門が、久々に大舞台に登場した。
その復活までに、どの様な事があったのか、その舞台裏、復活までの道のりを当HPが、探ってみた。
現在、倉敷工業高校野球部コーチ西川剛正は、次の様に語る。
(監督の)和泉先生と(部長の)中山先生が、一生懸命に、指導して下さったおかげです。県予選の前のミーティングで、『和泉先生は、試合中は、笑顔でいて下さい。』と、言ったのは、実はぼくなんです。和泉先生は、そのとおりを、やってくれました。意見を、取り入れてくれたんですね。あの時、ぼくは、和泉先生の、人間力を感じましたね。それと、OBコーチだった、藤原勝利さん、永山勝利さん。藤原さんと永山さんは、良く僕らの話を聞いてくれましてね。
ぼくらの、気持ちをよく理解して、くれたんだと思います。練習が、しやすくしやすくしてくれた、と思います。それと、主将が、北條だったから、勝てたと思います。」
西川は、走攻守揃い、二番打者、正二塁手として活躍した。
現在、岡山工業高校野球部部長中山隆幸。
平成6年、OB中山隆幸が、凱旋すると同時に、部長に就任した。中山は、技術指導の他に、ウエートトレーニング、イメージトレーニング等を、本格的に導入。
さらには、栄養学も取り入れ、食事にも気を配るようにした。当HPが時々グラウンドに行ってみると、行くごとに、選手の体格が大きくなっていたのは、こうした指導が、あったものと思われる。さらには、選手たちの意識改革も進め。先輩後輩の垣根を、取り払った。甲子園出場実績がない学校の監督を努め【力のない選手を、いかに伸ばすか】に、腐心して来た中山の指導は、大いに刺激になった。中山は甲子園に、3回出場。部長、監督として甲子園で、9試合を戦った。部長として、駒大苫小牧、今治西等と7試合を戦い、特に、鹿児島実業との試合では、野球の厳しさを、学んだという。「あの、スライディングは、厳しいものがありましたね。ルール違反では、ないんですが『塁を取る』という執念を感じました。」また、監督としては、2試合を戦った。金光大阪との試合で、大接戦を制し、強豪中京大中京に対し、56と食い下がったのだった。
現在、水島工業高校野球部監督和泉利典、十年間の、無念さを晴らすかの様に、力を蓄え岡山大会を、勝ち上がった倉敷工。
ベンチ裏で、大きな背中が震えていた。729日、倉敷マスカット球場。延長12回の死闘の末、岡山城東を下して優勝を決めた倉敷工監督和泉利典。
和泉は、OBコーチらに抱きかかえられ、人目をはばからず泣いた。もがき、苦しみ抜いて掴んだ喜び。その姿は、県内、いや全国屈指の名門が復活までに、たどって来た、苦闘の日々の道のりを、表しているかの様に見えた。

つづく
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捲土重来 平成8年の夏 鹿児島実業戦

「良く、やったぞ。倉敷工」大会十一日目の十八日、倉敷工は、今春の選抜の覇者鹿児島実業と対戦。鹿児島実業の強力打線の、勢いを止める事ができず、惜しくも敗退。ベスト8進出は、ならなかった。

鹿実  011 340 000 9
倉敷工 000 100 001 2

倉工一塁側アルプスは、優勝候補との対戦を、見届けようと最上段までぎっしり。球場全体を揺らすほどの、大声援で倉工ナインを、盛り上げた。
序盤、鹿児島実業のエース下窪投手の巧投や、たたみかける攻撃に苦戦。じりじり点差を広げられる一方的な展開に。倉工スタンドにも、焦りが、生まれ始めた。
【熱戦の足跡】
5点差を、追う四回裏倉工の攻撃。四球で出塁した、俊足西川が、盗塁をするなどで、迎えた一死三塁の好機に、バッターは主砲福原。
その期待に答えるかの様に、福原の打球は、快音を響かせ、二遊間を、ライナーで抜き、西川が、全力でホームを駆け抜けた。「よし、いいぞ。」と、待望の得点に沸く倉工アルプス。五回表、差は、6点に広がり、つづく無死一、三塁のピンチに、先発の諏訪から、エース中原がマウンドへ。一球一球丁寧に投げ込む中原だったが、鹿児島実業の打線を、食い止める事はできず、さらに2点を失う。最終回の攻撃。二死から代打の稲岡、白神渡辺の3連打で、1点を返すが、反撃もここまで。
最後の打者北條の打球は、内野への高い飛球でゲームセット。倉工スタンドは、時間が止まったように、静まりかえった。
【灼熱の白球】
「よく、やった。」と、倉工応援団三千人。
試合を、終えた倉工の選手たちが、一塁側アルプスに陣取る、約三千人の、大応援団のもとに駆けてくると、惜しみない拍手が湧き起こった。スタンドでは、最後まで大声援が続いた。九回に、1点を返すと「まだまだ、行けるぞ。」「最後まで、諦めるな。」と、この試合最大の盛り上がりを見せた。
西川剛正二塁手は、全力を尽くしたプレイ―に、本人も満足。『野球を続けてきて、本当に良かったです。精神的にも、一回り成長したように思います。』
倉工ナインは、胸を張って、鹿児島実業の校歌を聞き、その校歌に合わせて、手拍子を送ったのだった。

つづく
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捲土重来 平成8年の夏 東筑戦

無失策で守り切り、追いつかれても気力で突き放しての勝利。
台風12号の影響で、強風が吹く中での、ナイトゲーム。東筑が同点に、追いついてからの、投手戦。苦しい展開が続いたが、八回主砲福原が、勝ち越しの一打を、放った。
倉敷工 111 000 020 5
東 筑 000 210 000 3
東筑石田投手の、丁重に低めをつく力投で、スコアーボードには「0」が、続く。五回には、3対3の同点に追いつかれた。しかし倉工は、粘り強く守って耐えた。八回に試合が動く。坪井が敵失で、出塁。四番福原が、右打席に立つ。5球目内角の直球を、とらえた。風は、バックスクリーンから、本塁に向かう「浜風」。
球は、風に流されて、突っ込んできた右翼手のグラブの下を、くぐった。
坪井が、一塁から一気にホームに駆け込み勝ち越した。東筑外野陣は、深い守備位置についていた。
【熱戦の足跡】
倉工エース中原は、中盤から球の切れが失われていた。カーブを狙い打ちされ、四回には4連打を浴びて、2点が入り1点差に迫られる。
中盤は投手戦。石田投手の好投に空振り三振が続く。七回は三者三振。中原ー福原のバッテリーは、六回から、配球を替えて二塁を、踏ませなかった。強風に備えた外野守備は十分にしてきた。
また、改めて基本動作を確認すると共に、内野の守備も堅実さを増した。五回の、先頭打者のライナー性の打球を、一塁手高本が飛び上がってキャッチ。抜ければ、右翼への長打になりうるところを食い止めた。和泉監督は、試合前に『ミスは必ずあるもの。
それを、いかに最小限に食い止めるか。踏ん張る野球を心がける。』と、語った。声を掛け合いながらの無失策。倉敷工「浜風」の中、輝く笑顔。風が、倉敷工に味方したゲームだった。
【灼熱の白球主将北條剛中堅手】
『東筑のエース石田投手は、ストレートが早いので、そのストレートを狙って打ち崩す。』試合前の言葉どおりだった。一回戦の勝利から六日間待ち望んだ二回戦。先頭打者として、石田投手に向かった。
4球目、インコースに思い切りバットを振る。打球は、快音を残して
左中間を抜け、二塁打に。この一打がチームを勢いづけ、序盤の優勢
を、決めた。しかし、中盤に追いつかれ苦しい展開。勝利を信じて
『明るく、開き直って行こう。』と、沈んだベンチを、励まし続けた。
『どんな相手でも、毎回初戦という気持ちで頑張りたい。』と、北條。
自宅は、倉敷市南端の下津井。一時間四十分かけて自転車での
通学で、下半身を鍛えた努力の証が、そこにあった。

つづく随時掲載

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捲土重来 平成8年の夏 中越戦

「倉敷工業高校3番」北條剛主将が番号を読み上げた瞬間、ナインからは、大きなどよめき。選手たちは、「甲子園の雰囲気に慣れた五日めぐらいがいい。」と、言いあっていただけに、初日の第2試合と分かると「(北條)剛どこを、ひきょんなら。」と、笑い声が上がった。続いて対戦相手が、中越に決まると、「よしやるぞ」「どんなチームだ」等と、選手たちは、早くも闘志満々。
倉敷工 010 014 030 9
中 越 000 000 000 0
倉敷工28年ぶりの校歌。中越を、寄せ付けず。
二回、犠打を含む連続二塁打で、1点を先制。これで、流れを引き込むと六回、倉工らしさが爆発した。左前打の白神が、犠打、暴投で三進。
続く、中原のスクイズで、生還。なおも、一死一塁から、北條西川の連続長短打で、計4点を加え、試合を決めた。エース中原は、散発4安打の快投。伸びのある直球に、カーブスライダーが、決まり、12三振を奪う。
【熱戦の足跡】
純白に、エンジ色ラインのユニホームが、ダイヤモンドを駆け回った。好投あり、連打
あり、持ち味を存分に見せつけた古豪が28年ぶりに夏校歌を、銀傘に響かせた。完勝に、和泉監督は「選手が、私の指示以上に、やってくれた。」と、表情を、ほころばせた。「内角を見せ球に、外角のカーブ、スライダーで勝負。」という組み立てが、ずばり的中。打線も力を発揮した。
二回に、白神の、二塁打で先制。五回は、福原の二塁打。六回は西川の、三塁打と、長打攻勢の後の、八回は、4連打でダメ押し。
中越鈴木監督は、「止めようが、なかった。」と、うなだれた。
【灼熱の白球西川剛正二塁手】
二塁ベースの後ろに、小飛球が上がった。四回二死一、二塁。全力で追う。
「オッケー」。声を掛けた。そこに、ショート渡辺の声が、重なった。
スピードを、緩める余裕はない。衝突。左すねに、痛みが走った。グラブに力を込めた。右手にボールを、持ち替えて突き上げた。落とせば、同点だった。五回は、二遊間のゴロをさばき、ノーステップで一塁へ。八回にも、一、二塁間のゴロに、頭から飛び込み制した。広い守備範囲を誇るには、最初の一歩が、大事。『小さくても、やれる事は、見せられたと思います。』と、西川。身長160センチ。50メートル6秒0の、野球の虫。ユニホームは、誰のよりも、真っ黒に汚れていた。
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捲土重来 平成8年の夏 26

昭和36年夏の倉敷工。岡山県あるいは中国地区からも高い評価を受けて、「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは。」と、言われた年だった。
しかし、県予選直前、バント練習中に、エースが大怪我(右鎖骨骨折)という、アクシデントに見舞われた。全国屈指のエースの突然の負傷。「これで甲子園もおしまいか」全選手に、重苦しい空気が、伝わった。「こうなったら、打線の力でエースを甲子園に連れて行こう。」と、倉工ナインも奮起。炎の闘志と、団結力で予選を勝ち進み、ついに甲子園切符を、掴む。(当HP、昭和36年のドラマを参照して下さい。)その、昭和36年夏を呼び起こす様な一丸の勝利を、見せたのが平成8年の夏。その闘志と団結力は、県予選でとどまる事なく、聖地甲子園においても、その勇姿を見せつけた。
78回全国高校野球選手権大会阪神甲子園球場
平成888日倉敷工90中越
814日倉敷工53東筑
818日倉敷工29鹿児島実業
倉工野球の意気と誇りと苦闘の日々の団結は、しっかりと息づいていた。聖地甲子園で2勝。昭和43年夏、黄金の左腕小山稔投手以来28年ぶりの校歌を歌った。(当HP、青春ヒーロープレイバックを参照して下さい。)
この年、選抜甲子園で、優勝した、鹿児島実業に、屈したものの見事捲土重来を果たした倉敷工。古豪の歴史に、また新たな一ページが加わった。北條剛主将が、甲子園前に言った言葉。それは、『これからの僕らを、見ていて下さい。』

つづく
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参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

 

捲土重来 平成8年の夏 25

第78回全国高校野球選手権大会10年ぶり8回目の甲子園出場。
78回目の夏に輝く倉敷工。歓喜の倉敷工。
県高野連発足50周年を期に大会優勝旗が新調された。その優勝旗が倉敷工に渡った。
ところが、その優勝旗に面倒な事が、待ち受けていた。
現在岡山工業高校の教壇に立ち、同校野球部中山隆幸部長は、当時を振り返り次の様に語る。
「今までの古い優勝旗にある歴代優勝校のペナントをその新しい優勝旗に付け替えるのですが古いペナントもありましてね。その古いペナントを触っただけですぐに
ボロボロになるぐらいで。」そこで、中山隆幸部長は県高野連の理事長に相談した。しかし「理事長からは【歴史のあるものだけに大事に扱ってほしい】と言われましてね。」中山隆幸部長は、
苦笑いする。「とにかく、付け替えるだけで、もう大変でした。」
中山隆幸部長は、いつも甲子園を『聖地』と呼ぶ。
こうして、甲子園に向けて練習が開始された。倉工グランドでは「そんなに、もたもたしていたら甲子園で勝てるか。」和泉利典指揮官の激が飛んで行く。こうして、78回目の夏聖地甲子園に
向かった。そして、聖地甲子園で昭和43年夏の黄金の左腕小山稔投手(当HP、青春ヒーロープレイバックを参照して下さい)以来、2度の校歌を歌う事になる。
つづく随時掲載

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小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
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西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」

捲土重来 平成8年の夏 24

第78回全国高校野球選手権大会 10年ぶり8回目の 甲子園出場。
歓喜に湧く、3塁側倉工応援スタンド。その中から、和泉コールが湧き起こった。
「 和泉 和泉 和泉 」。すると、ベンチから、苦労人指揮官が、現れた。そして、ゆっくりと 倉工応援スタンド の方に歩いて来た。
止まった。スタンドを見上げた。帽子を取った。そして、深々と頭を下げた。どのくらい、下げ続けたのかは、わからない。和泉コールは、さらに大きくなった。応援団員は、スタンドの最前列に、何人も何人も集まった。
【 ようやった 】【 おめでとう 】そして【 ありがとう 】の声。苦労人指揮官は、ゆっくりとベンチに帰って行った。そして、ベンチ裏で苦労人指揮官は、大号泣した。
県高野連発足50周年を期に、大会優勝旗が新調された。その新しい優勝旗 が、 北條 剛主将 に、渡った。スタンドから「 やったあ 」の声。古豪復活の瞬間。「 気持ちがいいです。昔から歴史があるんで、より一層いいものにして、行きたいです。 」と、コメント。
一方、 エース中原 俊博投手 は、「 緊張して、中盤まで向こうに、押されてたんですけど、後半精神面でしっかりしていかないといけないと、思ったんで、踏ん張る事が出来ました。 」
大会優勝旗を、手にした 倉工ナイン は、 苦労人指揮官 和泉利典監督 を、何度も何度も、胴上げした。午後6時、倉工ナインが凱旋した。すると、一人のOBが、ナインの帰りを、待っていた。 藤田 昌人OB だった。黒板に、次の様に書いて、待っていた。『 本日は、優勝おめでとう。全国優勝目指して頑張って下さい。 』 北條 剛主将 は、「 これからの、僕らを見ていて下さい。 」と、力強く語った。甲子園が、決まった次の日から、学校も忙しくなった。待ちに待った、甲子園出場。OBの喜びもひとしお。 羽場 武治教頭 は 「 たくさんの、OBの期待があったんです。県外、外国へも大勢の先輩を送っていまして。ひっきりなしに、電話がかかってくるんです。嬉しい悲鳴です。 」
ところが、「 新しい優勝旗だったんですが、これがまた大変だったんです。 」と、 中山隆幸部長 は言う。何が、あったのだろうか。
まさに、 平成8年の夏 は、長い。

つづく  随時掲載

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参 考
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」

協 力
小山  稔 氏 「 元 倉敷工業高校野球部 コーチ 」
和泉 利典 氏 「 元 倉敷工業高校野球部 監督 」
中山 隆幸 氏 「 前 倉敷工業高校野球部 部長 監督 」
西川 剛正 氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」

捲土重来 平成8年の夏 23

第78回全国高校野球選手権大会 岡山大会
決勝 倉敷工 VS 岡山城東
エースは、力投する。エースは、延長に入っても、一人もランナーを出していない。そして、延長12回 倉工打線 が、そのエースを援護する。
送りバントを挟み、連続5本のヒットで 2点 を奪取。倉敷工8点 岡山城東6点となる。延長12回裏、岡山城東は、すでに二死。
血を吐く、死闘を制する時が来た。
倉敷工 100 030 200 002  8
城 東 011 103 000 000  6
3塁側倉工応援スタンドの、視線の先は、エース中原に注がれている。
いや、視線の先は、甲子園。ここで、3塁側倉工応援スタンドは、なぜか静かになった。エース中原 渾身のストレートを、右打者の内角に投げ込んだ。
打球は、ボテボテの、三遊間へ。サード坪井 打球にダッシュ。
そして捕球。捕球した瞬間(捕ったぞ やったぞ)の仕種。ステップして一塁へ、ビシー。ファースト高本 捕球した瞬間、両手を上げてマウンドに走った。
ベンチから、倉工ナイン全員が、マウンドへ。エース中原 は、「よっしゃー」の、雄叫びを上げる。マウンド上で、倉工ナインが、抱き合った。
歓喜の 和 が広がる。ベンチでは中山隆幸部長と和泉利典監督ががっちりと握手。3塁側倉工応援スタンドは、「よっしゃー!」の声に始まり、お互いに抱き合う者、握手する者、そして涙ぐむ者も。
捲土重来。古豪復活の瞬間。全員野球で、勝ち取った10年ぶり8回めの甲子園。
この試合を、スタンドの最前列で見守り、感慨にふける一人のOBがいた。
部長、監督を補佐し、エース中原を育てたOB。そのOBとは、昭和36年夏、県大会直前に大怪我をしたエースの、代役としてマウンドを死守した永山勝利倉敷工投手コーチ その人である。【当HP 昭和36年のドラマ を参照して下さい】
倉工野球の意気と誇りと苦闘の、日々の団結は、しっかりと息づいていた。
県高野連発足50周年を期に、大会優勝旗が新調された。その、新しい優勝旗が、北條剛主将に渡った。捲土重来。古豪復活の瞬間。
スタンドから、大きな拍手が、轟いた。
つづく 随時掲載

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参 考
山陽新聞社 「灼熱の記憶」

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小山  稔氏 「 元 倉敷工業高校野球部 コーチ 」
和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部 監督 」
中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部 部長 監督 」
西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」