平成元年は、決勝で涙。二年は、準決勝。三年は、3回戦で敗退。
甲子園は、近いようで遠かった。「華々しい時代を、知っているだけにイライラし通しだった。」と、倉工ファン。平成五年、甲子園出場経験のある、OBの藤原勝利と永山勝利が、コーチに就いた。さらに六年、倉敷工在学中、監督の和泉利典と、共に白球を追った中山隆幸が、凱旋し部長に。倉敷工野球部出身の和泉と中山。
二人とも現役時代、甲子園出場を果たせなかっただけに、ひのき舞台への、思い入れも強い。「選手のため。応援してくれる人達のためにも頑張りたい。」と、和泉と中山。こうして、和泉をサポートする体制が、出来上がったのだった。大きな転機だった。まず、新体制が手をつけたのは、『習慣』の撤廃。例えば、グランド整備は下級生のみ。「いつの間に、意味のない習慣が増えていたのか、と驚いた。」と、永山。OBコーチの、藤原と永山は、『グランドでは厳しく練習以外では、仲間。』という意識を、植え付けた。指導方法も変化させた。中山は、メンタルトレーニング、ウエートトレーニングを本格的に導入。さらに、栄養学も取り入れたため、選手たちの基礎体力が、みるみるうちに、アップした。「力のある選手を集め、技術練習で強くする事ばかり考えていた。」と、和泉。甲子園出場実績は、もとより県内でも、実績のない学校の監督を努め『力のない選手を、いかに伸ばすか。』に、腐心して来た中山の指導は、大きな刺激となった。
技術指導は、和泉。野球に対する心構えは、藤原と永山の両コーチ。コンディショニング、メンタル面は、中山。すると、新体制の歯車が、がっちりと、かみ合い始めた。さらに、目標は高く設定した。
それは、『全国制覇』。「常に甲子園に出るチームは、全国で勝つという、意識を持っている。目標を、甲子園出場に置くと、途中で息切れをしてしまう。」と、和泉は、説明する。結果もついて来た。
昨夏(平成7年)は久々にベスト4。優勝した関西を、最後まで苦しめた。そして、平成8年の夏、苦しい試合を一つ、また一つと、ものにして行きながら、古豪は、力強く復活を果たした。これぞ【捲土重来】七月二十九日、倉敷マスカット球場。優勝を決めた直後のインタビューで、和泉は、声を詰まらせた。そして泣いた。「あくまでも、目標は
全国制覇。十年かかっても、いや、それ以上かかっても。」主将の北條は、優勝旗を手に、力強く言い切った。先輩たちが、成し遂げられなかった大きな【夢】に向かって、よみがえった名門が、力強く羽ばたき始めた【平成8年の夏】。倉工の玄関には、倉敷工野球部の、業績を記した額が、かかっている。一番左に、『二〇〇九(平成二十一年三月)第八一回選抜高校野球大会出場二回戦開幕試合史上初金光大阪に延長逆転サヨナラ勝利』と、書かれている。まだ、その左には、余白がある。今度は、どんな文字が書き込まれるのだろうか。
捲土重来最終回
お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞
協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」