夏9回、春10回の甲子園出場を誇る県内、いや全国屈指の名門倉敷工。
19回の、甲子園出場のうち、ベスト4四回(昭和24夏、昭和32春、昭和43春、夏)。ベスト8は、二回(昭和47春、昭和49春)全国の強豪校として名を馳せ、甲子園での、通算成績は25勝19敗と輝かしい戦績を誇る倉敷工。
この25勝は、現在県最多勝利数である。四十二、四十三年は四季連続出場「当、HP。カテゴリーの中、青春ヒーロープレイバックを参照してください。」を、果たすなど、また、三十年から四十年代にかけては。岡山東商と共に県内二強時代を築き、県高校球界をリードして来た。ところが、五十年代に入ると、普通科志向の、強まりからいい選手が、集まりにくくなった。また、スポーツに力を入れる学校も増え、岡山南や玉野光南そして岡山城東など新勢力も台頭。『勝てない』『選手が集まらない』と、言う悪循環。選手の気質も変わり厳しさ一辺倒の指導では、通用しなくなってきた。名門であるがゆえに、これまでの指導方法、あるいは、気質から脱却できないまま、じりじりと低迷へと追い込まれて行った。夏の大会で、57年は1回戦を、突破したが58、59年は連続して、初戦で姿を消すなど、低迷状態が続いた。和泉利典が、倉敷工監督として、チームを預かったのは、そんな時代の変わり目の、真っ只中の、昭和59年秋。
伝統校も、甲子園から十五年以上、遠ざかっていた。【ぜひとも、古豪復活を】OB、ファンは和泉へ期待が集まった。和泉は、力のある選手を集め、熱血指導で、就任二年目の、昭和60年夏県大会準決勝へ進出。身長168㎝2年生の、エース左腕石井厚志を擁し連続無失点47イニングを達成。手応えを感じていた時、OB塩田富士夫が、監督に着任した。和泉は、コーチに退く事に。
当時、和泉は26歳。翌昭和61年夏、エース石井の、抜群の制球力と、キレのあるカーブを武器に力投で、倉敷工は、岡山大会を制し、実に18年ぶりの甲子園出場を勝ち取る。和泉は、手塩にかけた選手たちの活躍を喜ぶ一方で、「複雑な気持ちもありました。」と打ち明けた。甲子園では、初戦で秋田工に、1対11で敗れたものの倉敷工にとって悲願の【古豪復活】になったと思われた。だが、翌夏から再び甲子園は遠のいた。そして、平成元年再び和泉が監督に返り咲く。満を持しての再スタートだったが、やはり『あと一歩』の状態が続いた。「何が足りないのか」やがて悩み苦しむ和泉に、転機が訪れる。
つづく
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お願い
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参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
山陽新聞
協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」
西川剛正氏「現倉敷工業高校野球部コーチ」