風雲の軌跡 涙の甲子園 14

監督 小沢 馨物語

第47回全国選抜高校野球大会。 倉敷工 VS 東海大相模。

東海大相模 1点リードのまま、9回倉工の攻撃。2死でランナーなし。

ここで、エースで4番の 兼光 が打席に入る。一球入魂。打球は、センターの頭上

を超えた。大歓声の中、 兼光 は、二塁ベースを回ったところで、ふらついた。

フラフラになりながらも、三塁へヘッドスライディング。「 セーフ 」。さらに、大きな

大歓声が、沸き起こった。小沢監督から貰った、エネルギー。死力のマウンド。

そして、全力を使い果たした、大三塁打。ここで、結果的に最後の打者が打席に

入った。カウント ノーストライク 3ボール 。小沢監督からのサインは、「 待て 」。

次、一球ストライクが入って、1ストライク3ボール。さらに、サインは 「 待て 」 。

次、ストライクが入って、2ストライク3ボール。そして、勝負球の6球め、東海大相模

エース 村中 が投じた瞬間、捕手が中腰になった。高めのボールかと思われたが

判定は、ストライク。がっくり、膝をつきグランドに崩れる最後の打者。そこへ 兼光

が、歩みよった。肩をポンポンと叩き、抱き起した。そして、何ごとかささやいた。

何と言ったのだろうか。「 それは、監督さんが、教えてくれた事です。 」と、兼光・

次の瞬間、小沢監督はこみ上げるものを、こらえきれなかったという・

小沢監督、甲子園での初めての 涙 。高熱でフラフラになりながらも、歯を喰い

しばり、投げ抜いた 兼光 の姿に、小沢監督は 感涙 。そして、『 よくやった

男の中の男 』賛辞を、贈ったのだった。小沢監督、涙の甲子園。希代の名監督

が見せた 涙 。名将 小沢監督 最後の甲子園。選手たちは、最高の試合を

師  にささげた。倉工ナインの中、ただ一人 兼光 だけが、号泣した。

号泣する、 小倉北 福島投手 の姿に戸惑った無欲の初出場から、四半世紀

が、過ぎていた。

つづく  ただし、涙の甲子園は、最終回。

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よ ふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  小山 稔氏

大倉 一秀氏

神土 秀樹氏

風雲の軌跡 涙の甲子園 13

第47回全国選抜高校野球大会。二回戦。 倉敷工 VS 東海大相模

この試合が、事実上の決勝戦といわれた。東海大相模は、 3番原 辰徳

4番津末 英明 を中心とした打撃のチーム。特に3番原は、確実性の原

4番津末は、長打力の津末といわれ、全国的にも有名。監督は、「 あの程度

の投手なら、楽に6点は取れる、」と、笑みを浮かべたのだった。一方、倉工は

エース兼光が本調子でなく、明るい材料といえば、下位打線が振れていること

ぐらい。それでも、小沢監督は、大差の敗北を覚悟をして、兼光に先発を命じ

たのだった。エース兼光の先発。試合が始まった。もはや、自負を失いかける

小沢監督。ところが、小沢監督の目の先に信じられない光景が展開されている

のだ。心身共に衰弱しているはずの兼光が、本領を発揮しているのである。

兼光の投じた球は、相手の背筋の凍る豪速球となって、 捕手大本 のミット

に吸い込まれる。捕手大本の乾いたミットの音。『 バシー 』。

自らのプライド、監督チームメイトへの思いが、熱い魂となって、倒れそうな肉体

を支える。このエネルギーはどこから来たのだろうか。【 それは、やっぱり小沢監督

からもらったエネルギでしょうね。 】と、兼光。そして、【 この信頼、この信頼は

絶対守らないといけないと思いました。善戦とかではなく、絶対に勝つという気で 】と。

東海大相模の攻撃。ランナー一塁で東海大相模のエース村中が、左打席に入る。

センター大倉は、打球を予測して右中間寄りに。予測したとおり、打球が、右中間

に。大倉、懸命に背走するも、届かず。その間、一塁ランナーは、ホームイン。

打った村中は、三塁へ。『 懸命に背走したんですけどね。グローブの先に打球

が、触れたんですよ。たぶん、誰もわからないとおもいますね。 』今でも、あの時の

悔しさを忘れていない 大倉 。試合は、東海大相模1点リードのまま、9回裏

倉工の攻撃。すでに、二死でランナーなし。ここで、エースで4番の 兼光 が

打席に入った。

つづく   随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よふたたび 」

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協 力  小山 稔氏

大倉 一秀氏

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風雲の軌跡 涙の甲子園 12

監督 小沢 馨物語

昭和50年 第47回全国選抜高校野球大会

倉敷工  005 801 011  16
中京   101 450 310  15

球史に残る打撃戦になった。大会1号を、9番レフトの 野田 が、2号を

7番サード 石原 が、それぞれレフトスタンドに運んだ。終わってみれば

倉敷工15安打、二塁打5本、三塁打1本。対する中京は、14安打

二塁打1本、三塁打2本だった。剛球右腕 エース兼光 は、中京戦に

登板するも、高熱は下がらず、試合の記憶すら、定かでないという。

主将 大倉 は、「 兼光が高熱があるのは、知っていました。 」

守備の名手 神土 は、「 兼光さん、よく打たれるなあ。それにしても

中京は、良く打つなあ、と思っていました。それで、兼光さんが熱があるとは

知りませんでした。 」と。最大11点をリードするが、中京打線にノックアウト

され降板。「 もうやけくそで、兼光をかえました、 」と、小沢監督・

チームは、何とか逃げ切った。小山コーチは、次の様に語る。「 13対2

の時、中京は逆に気軽になったのでは。野球というのは、1点や2点差

となったら、プレッシャーになるもの。 」 試合後、小沢監督は大会関係者

に、『 ぶざまな試合をしてしまい、申し訳ございません。 』と、深く頭を

下げたのだった。この試合、同点にはなったが、逆転されなかったのが大きい。

二回戦は、東海大相模。三番 原 辰徳 四番 津末 英明 を擁する

打線は、全国一。倉敷工 と 東海大相模。この試合が、事実上の決勝戦

と言われたのだった。東海大相模の監督は、「 あの程度の投手なら、うちの

打線なら、楽に6点は取れる。 」と、笑みを浮かべた。

つづく  随時掲載

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神土 秀樹氏

風雲の軌跡 涙の甲子園 11

監督 小沢 馨物語

昭和50年春。第47回全国選抜高校野球大会。組み合わせ抽選会。

小沢監督は、会場入り口で 中京、杉浦監督 とバッタリ。二人は談笑しながらも

お互いの健闘を誓いあった。そして、いよいよ抽選会が始まった。主将 大倉 が

引いたクジは、何と開会式直後の第一試合。しかも、相手は健闘を誓いあった

名門 中京。その瞬間会場がどよめいた。そして、二回戦では 原 辰徳 のいる

東海大相模。さらに、会場がどよめいたのだった。一回戦から好カードだったから

であろう。剛腕エース 兼光 の名前は、全国的にも知れ渡っていた。

「 東の寒川 ( 岡山東商 ) 西の兼光 」と。こうして、開会式が始まろうとして

いた。入場行進が始まろうとしていた時だった。「 とにかく緊張しました。 」と、

守備の名手 神土 が苦笑いしながら、語ってくれた。開会式が終了して

一塁側 倉敷工 三塁側 中京 がベンチに入った。外野のノックは、小山コーチ

【 本HP青春ヒーローを参照して下さい 】内野は、 小沢監督 が行った。

ノックを終えた 小山コーチ は、ユニホームのままバックネット裏の最前列に座った。

その時、隣にある人物が座りに来た。「 倉敷工業のコーチの方ですか 」

「 はい そうです。 」 その人物こそ、 豊見城 沖縄水産 を合計17回も

甲子園に導いた 裁 弘義監督 だった。この時、甲子園初出場。どんな名監督

でも、最初から名監督ではない。最初は、誰でも 「 学ぶ 」 事から始めるもの

である。恐らく 裁監督は 小沢監督 から、 小山コーチ を通じて何かを

「 学び 」に来たのであろう。そして、プレーボールのサイレンが、大甲子園に鳴り

響いた。ところが、エースに異変が生じていた。 剛腕エース兼光 の異変。

「 甲子園入りする前から、 兼光 は、体調を崩していました。 」と、小山コーチ。

つづく  随時掲載

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神土 秀樹氏

 

風雲の軌跡 涙の甲子園 10

監督 小沢 馨物語

昭和50年。第47回全国選抜高校野球大会。2年連続9回めの出場。

小沢監督は、今までに類のない大型チームを、作り上げる。このチームは

個性派集団で、一度火がついたら、とてつもない実力を発揮するチーム。

倉敷市民は、「 今度こそ、全国制覇を 」と、願ったのだった。

「 とにかく、個性が強い奴ばっかりだったので、チームをまとめるのに苦労

しました。 」こう、語るのは、一年生からレギュラーを獲得し、当時主将

だった、 大倉一秀 。この選抜に出発する前、倉工ナインは、テレビに

出演。司会者が、小沢監督に尋ねた。 「 今回のチームは、いつもと

違う点は、どこですか? 」すると、小沢監督は、「 今年は、センターライン

が、いいんです。センターラインがいいと、野球は強くなるんです。 」

センターラインとは、捕手、投手、セカンド、ショート センターの事。

そして、小沢監督は、次の様に語った。『 一度でいいから、優勝旗に

手をかけてみたいですね。 』この言葉には、マスコミが騒いだ。小沢監督

が 【 優勝 】と言う言葉を使ったからである。 【 優勝 】と言う言葉を

使ったのは、何年ぶりであろうか。昭和43年夏、大エース 小山投手 を

擁した時、以来でなかったか。倉工久しぶりの、大型チーム。エースは

剛腕 兼光保明 。防御率0点代と言う、驚異的な数字を持って

甲子園に、乗り込む 倉工ナイン。

つづく  随時掲載

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神土秀樹氏