風雲の軌跡 涙の甲子園 11

監督 小沢 馨物語

昭和50年春。第47回全国選抜高校野球大会。組み合わせ抽選会。

小沢監督は、会場入り口で 中京、杉浦監督 とバッタリ。二人は談笑しながらも

お互いの健闘を誓いあった。そして、いよいよ抽選会が始まった。主将 大倉 が

引いたクジは、何と開会式直後の第一試合。しかも、相手は健闘を誓いあった

名門 中京。その瞬間会場がどよめいた。そして、二回戦では 原 辰徳 のいる

東海大相模。さらに、会場がどよめいたのだった。一回戦から好カードだったから

であろう。剛腕エース 兼光 の名前は、全国的にも知れ渡っていた。

「 東の寒川 ( 岡山東商 ) 西の兼光 」と。こうして、開会式が始まろうとして

いた。入場行進が始まろうとしていた時だった。「 とにかく緊張しました。 」と、

守備の名手 神土 が苦笑いしながら、語ってくれた。開会式が終了して

一塁側 倉敷工 三塁側 中京 がベンチに入った。外野のノックは、小山コーチ

【 本HP青春ヒーローを参照して下さい 】内野は、 小沢監督 が行った。

ノックを終えた 小山コーチ は、ユニホームのままバックネット裏の最前列に座った。

その時、隣にある人物が座りに来た。「 倉敷工業のコーチの方ですか 」

「 はい そうです。 」 その人物こそ、 豊見城 沖縄水産 を合計17回も

甲子園に導いた 裁 弘義監督 だった。この時、甲子園初出場。どんな名監督

でも、最初から名監督ではない。最初は、誰でも 「 学ぶ 」 事から始めるもの

である。恐らく 裁監督は 小沢監督 から、 小山コーチ を通じて何かを

「 学び 」に来たのであろう。そして、プレーボールのサイレンが、大甲子園に鳴り

響いた。ところが、エースに異変が生じていた。 剛腕エース兼光 の異変。

「 甲子園入りする前から、 兼光 は、体調を崩していました。 」と、小山コーチ。

つづく  随時掲載

お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」

OHK     「 旋風よふたたび 」

山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」

協 力  小山 稔氏

大倉 一秀氏

神土 秀樹氏