監督 小沢 馨物語
昭和50年春。第47回全国選抜高校野球大会。組み合わせ抽選会。
小沢監督は、会場入り口で 中京、杉浦監督 とバッタリ。二人は談笑しながらも
お互いの健闘を誓いあった。そして、いよいよ抽選会が始まった。主将 大倉 が
引いたクジは、何と開会式直後の第一試合。しかも、相手は健闘を誓いあった
名門 中京。その瞬間会場がどよめいた。そして、二回戦では 原 辰徳 のいる
東海大相模。さらに、会場がどよめいたのだった。一回戦から好カードだったから
であろう。剛腕エース 兼光 の名前は、全国的にも知れ渡っていた。
「 東の寒川 ( 岡山東商 ) 西の兼光 」と。こうして、開会式が始まろうとして
いた。入場行進が始まろうとしていた時だった。「 とにかく緊張しました。 」と、
守備の名手 神土 が苦笑いしながら、語ってくれた。開会式が終了して
一塁側 倉敷工 三塁側 中京 がベンチに入った。外野のノックは、小山コーチ
【 本HP青春ヒーローを参照して下さい 】内野は、 小沢監督 が行った。
ノックを終えた 小山コーチ は、ユニホームのままバックネット裏の最前列に座った。
その時、隣にある人物が座りに来た。「 倉敷工業のコーチの方ですか 」
「 はい そうです。 」 その人物こそ、 豊見城 沖縄水産 を合計17回も
甲子園に導いた 裁 弘義監督 だった。この時、甲子園初出場。どんな名監督
でも、最初から名監督ではない。最初は、誰でも 「 学ぶ 」 事から始めるもの
である。恐らく 裁監督は 小沢監督 から、 小山コーチ を通じて何かを
「 学び 」に来たのであろう。そして、プレーボールのサイレンが、大甲子園に鳴り
響いた。ところが、エースに異変が生じていた。 剛腕エース兼光 の異変。
「 甲子園入りする前から、 兼光 は、体調を崩していました。 」と、小山コーチ。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏
大倉 一秀氏
神土 秀樹氏