監督 小沢 馨物語
昭和50年。第47回全国選抜高校野球大会。2年連続9回めの出場。
小沢監督は、今までに類のない大型チームを、作り上げる。このチームは
個性派集団で、一度火がついたら、とてつもない実力を発揮するチーム。
倉敷市民は、「 今度こそ、全国制覇を 」と、願ったのだった。
「 とにかく、個性が強い奴ばっかりだったので、チームをまとめるのに苦労
しました。 」こう、語るのは、一年生からレギュラーを獲得し、当時主将
だった、 大倉一秀 。この選抜に出発する前、倉工ナインは、テレビに
出演。司会者が、小沢監督に尋ねた。 「 今回のチームは、いつもと
違う点は、どこですか? 」すると、小沢監督は、「 今年は、センターライン
が、いいんです。センターラインがいいと、野球は強くなるんです。 」
センターラインとは、捕手、投手、セカンド、ショート センターの事。
そして、小沢監督は、次の様に語った。『 一度でいいから、優勝旗に
手をかけてみたいですね。 』この言葉には、マスコミが騒いだ。小沢監督
が 【 優勝 】と言う言葉を使ったからである。 【 優勝 】と言う言葉を
使ったのは、何年ぶりであろうか。昭和43年夏、大エース 小山投手 を
擁した時、以来でなかったか。倉工久しぶりの、大型チーム。エースは
剛腕 兼光保明 。防御率0点代と言う、驚異的な数字を持って
甲子園に、乗り込む 倉工ナイン。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 大倉一秀氏
神土秀樹氏