第81回選抜高校野球大会。開幕試合で、壮絶な試合を制した倉敷工。次の2回戦の相手は、今大会№1の打率を誇る中京大中京。
実はこれより34年前、昭和50年第47回選抜大会の開幕試合で対戦し、倉敷工が16対15で勝利。
この試合は「球史に残る開幕試合」として今でも語りとして残っている。当HPでは、すでに「風雲の奇跡涙の甲子園」で紹介しているが、再度振り返ってみる事にした。
(当、HP。カテゴリーの中、風雲の奇跡涙の甲子園を参照して下さい。)
倉敷工005 801 011 16
中 京101 450 310 15
当時の倉敷工オーダー
1.二 安本
2.右 松島
3.一 樋口
4.投 兼光
5.捕 大元
6.中 大倉
7.三 石原
8.遊 神土
9.右 野田
中学3年生の少年は見た。
「ものすごいバッティングにくぎ付けでした。そして、純白のあのユニホームが、もうすぐ着れるんだと思うと、嬉しくて嬉しくて。」
その少年は、甲子園の一塁側アルプススタンドで入学が決まった倉敷工の試合に胸を躍らせたのだった。その少年こそ母校倉敷工野球部監督として、二度の甲子園出場を果たし7試合を戦った和泉利典総監督である。(現在、水島工野球部総監督)
昭和50年3月28日、阪神甲子園球場。
前年、秋の中国大会で準優勝した倉敷工は、優勝校広島工と共に、九回目の選抜出場を果たした。
この時の、入場行進曲歌手森昌子の「おかあさん」のメロディーで開幕。
開幕試合で強豪中京と対戦。中京は、昭和42年に校名を中京商から改めて以来の出場だった。
好カード。最初から乱打戦のシーソーゲームが始まった。
倉敷工エース兼光は、防御率0点代で甲子園に乗り込んだのだが、甲子園入りしてから40度の高熱を発症していた。
三回、長短打にスクイズを織り交ぜ5点を奪うと、四回は野田の左超え3ラン等で一挙8点。13対2と中京を突き離した。エース右腕兼光は、高熱のためフラフラになりながらもマウンドに立っていた。13対2と全く勝負あった感じだったが、その劣勢を跳ね返して、喰い下がったのはさすが中京。五回、三連打で兼光をノックアウト。代わった一年生の塚岡から近澤がライトへ安打。これを、右翼手についていた兼光がエラーをする等、この回5点を加えた。石原(倉工)近澤(中京)のホームランの応酬で、七回にはついに同点。15対15の九回表。二死二塁で、この日3打席無安打の3番樋口を小沢監督はベンチに呼んだ。『3打席ノーヒットなんだから、初めて打席に立ったつもりで行け。』と指示。すると、左打席の樋口は、決勝の左超え二塁打を放ち16対15で逃げ切った。
両チーム合わせて、3本塁打29安打が飛び交った。
(一年生のショート)神土秀樹コーチは、「兼光さんが、熱があった事は知りませんでした。そして、中京はよく打つなあと思っていました。」
一方(当時の)小山稔コーチは、「エースで4番の兼光を中心として、非常に高いレベルで投打にまとまっていたチームでしたね。」
「兼光の投球フォームは、投手としては程遠いものでしたが正しい投球フォームにすると兼光が投げられなくなってしまいますから本人に任したんです。」
「九回、樋口のレフトオーバーは差し込まれたんですが、力でレフトオーバーに繋げました。」
こうした歴史と伝統がある倉敷工と中京大中京。
(第81回選抜高校野球大会。)2回戦の相手は、強打中京大中京。
倉敷工山崎早藤の投手陣対強打中京大中京の勝負だった。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)
協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」