昭和36年のドラマ2

「今年の倉工は、全国制覇ができるのでは」と、多くの関係者から高い評価を受けて、監督小沢の夢も大きく膨らんだ事だろう。
しかし、小沢は冷静にチームを分析していた。
「もし、チームがピンチを招くとしたらそれは、バントシフトが崩れた時。例えば一塁にバントをされて、一塁手と投手が譲りあったり、三塁側にバントをされて、三塁手と投手が譲りあったりした時にピンチがあると。それだけに、どちらでも取れる所に何回も転がして行って練習をしていたんです。打たれてピンチを招く事は、ほとんどないだろう。」と。
小沢の言葉にある様に、エース森脇は素晴らしい投手であったのだ。
3年生で外野手の三宅は「一球バントしたら、一塁に走る。一球バントをしたら一塁へ走る。この様な練習ばかりしていた。」と言う。
と、その時である。エース森脇と、主将で一塁手の松本がぶつかって、森脇が大怪我をしてしまったのだ。
その時の模様を、三宅は鮮明に覚えている。
「森脇がバントをして、一塁へ走って、松本がバント処理をして、タッチしたら、森脇が転んで、地面をクルクルと2回転した。それで、右鎖骨骨折をしたんです。」
当の森脇は、「足にタッチされたと思う。普段なら何でもないのに、私の足がもつれてしまって。松本がどうのこうの言うことではないんです。」と。
外野手の土倉は「あれは、7月1日で、合宿の最後の日。全員が疲れのピークに達していてのアクシデントであったと思います。もうこれで、甲子園は終わりだなと思った。恐らく全員が思ったと思う。」と。
2年生の、永山、槌田、高橋らは部室内で「えらい事になった。でもやるべき事はやろう」と話し合っていた。
小沢はこう話す。「監督の私にも大きな責任があるのだけれど松本においては、その後大きな負担をかけさせてしまった。監督さん、森脇を県予選までに、投げれるようにして下さい。もし、この夏森脇が投げられなかったら、わしは一生涯森脇に頭が上がらないんです。どうか、監督さんお願いします。と本当に涙して訴えて来たんです。」
一人責任を背負い込んだ松本であった。
しかし、どう見ても県予選までに日数が足りないのである。しかも、医者からは「森脇が投げられるのは、8月以降だろう。つまり甲子園に出ないでは、この夏森脇は投げられないだろう」と言われたのだった。
選手全員が、下を向いて黙っていた。
その時、松本が選手全員に訴えたのだ。大粒の涙を流して。

つづく   随時掲載

 

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参 考   瀬戸内海放送  番組「夢 フィールド」

山陽新聞社      「灼熱の記憶」

協 力   岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会