昭和36年のドラマ9

新聞に、「選手に謝る 小沢監督」と出た。
森脇に全てを託す意味からも、あの時永山をベンチに下しておくべきだった。
采配ミスを、選手に謝ったのだ。しかし、ようやく投げられるようになったばかりのエース森脇にとって、「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」
再登板は、あまりにも酷だったのだ。
宿舎に帰った小沢。襖を開けると思わず息をのんだ。そこには、大広間に松本ら全選手が、正座をして小沢の帰りを待っていたのだ。小沢も正座をして手をついた。
「申し訳ない。お前たちを勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったらお互いことわりをしよう。(どうも、すみませんでした)と。わしは、何回も謝る。君らも一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」と言うと、手をついて頭を下げたのだった。
一方、松本らは「森脇を、出してくれてありがとうございました。」「ありがとうございました。」
小沢の目に、光るものがあった。松本らは、感謝の言葉を返したのだった。
この後、小沢は、何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して選手を責めなかったという。
情に厚い人格者でもあったのだ。
全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。全ての責任は、監督の私にある。どんな非難も、私一人が受け止める。それよりかは、甲子園出場を果たしたことを、君らの永い人生に活かしてほしい。
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。

つづく 随時掲載

お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。

参 考 山陽新聞社「灼熱の記憶」

瀬戸内海放送 番組「夢 フィールド」

協 力 岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会