小山 稔物語
甲子園から宿舎まで徒歩で帰っていた。小沢監督は、角野に続いて小山に歩みよった。
そして、小山の肩をポンポンと叩いた。「 小山、三年間ご苦労さん。小山、おまえ三年間
本当に良く頑張ったな。今日も肩が痛いのに、良く投げてくれたよ。ナイスピッチングだったよ。」
恩師、小沢監督から初めて受ける ねぎらい と 感謝 の言葉だった。
母に誓ったプロ野球選手。少年の日の夢。その言葉に小山は、【 エースの喜びを知り
完全燃焼の涙を流したという。】 ケレン味ない絶妙の投球と、強靭な精神力。小沢監督
に憧れ、倉工の門を叩き、腕も折れよと投げ抜いた甲子園 97 イニング。彼には、40年の
岡山東商に四滴する栄光が求められた。結局母校に、大優勝旗をもたらす事はできなかったが
小山が挙げた 甲子園での勝利数7 を抜く投手は県下に今だに現れていない。
「 黄金の左腕 」と、呼ぶのふさわしい、大エースだった。
心の豊かさ。それは夢を失わず、夢を持って生きる事。決して本調子でなくても、序盤に打ち込ま
れても、投げ続けるのがエース。マウンドを守り続けるのがエース。人生も、またそうなるべきである。
黄金の左腕 小山 稔。彼の青春には、運命のいたずらと、破綻の恐怖が付きまとった。
それでも、夢を見たのである。もしも、あの時繰り上げがなかったら、その後の甲子園の結果は
違っていたかも。「 あの繰り上げ出場がなかったら、甲子園優勝はもとより、日本を代表する
投手に、なっていただろう。 」と、小沢監督は言う。 「 投手生命は、短ったけど、あの舞台で
あそこまで投げれて、満足です。」と、小山。その後、小山は社会人野球の強豪 河合楽器
に行くが、間もなく現役を断念。倉工コーチを経て、野球用品関連の仕事をする。
事業のかたわら、少年たちを指導する、 野球道場 を主宰。技術だけでなく、礼儀、道具の
大切さ、そして野球を愛する心を、説いている。黄金の左腕は、キズついても心は常に野球と
共に。「 いい仲間と、倉工のグランドでせい一杯やれました。野球としての悔いは全くありません。」
と、言い切る小山。そして、少年の日と同じ目の輝きを持ち続けている。小山の夢は終わらない。
「 もう一度生まれ変わっても、野球をしたいですね。今度は、絶対にプロに行きます。高校は
もちろん倉工でやります、」と、小山。今でも、球場アナウンスが聞こえて来るようだ。
【 岡山県代表 倉敷工業高等学校 ピッチャーは 小山くん 小山くん 背番号1 】
おわり
お願い 本文に迫力を持たせたく、、敬称は略させて頂きます事をご了承ください
参 考 瀬戸内海放送 ( 夢 フィールド )
山陽新聞社 ( 灼熱の記憶 )
協 力 小山 稔