監督 小沢 馨物語
港町玉島の、誇り高き野球団 玉島モタエ倶楽部。
港町玉島の、剛腕 左腕エース 大野 仁之助 と 盟友である、六尺越え
の豪傑 三宅 宅三。大野は、激戦地で散った亡き友の、思いを胸に投げ抜き
、三宅は、五輪中止の無念を、国体にぶつけた。倉敷から越境入学して、
玉島商 で、青春を過ごした三宅は、砲丸投げで全国優勝。明治大学を経て
倉敷駅前の実家で、書店を営む日々を送っていた。一方、大野は指導者として
後輩たちと、甲子園を目指した。そんな時だった。倉工が新しく野球部を作る事
になったのである。そして、三宅に運命の時が来た。野球部部長が、三宅の家を
訪問。「 三宅君、倉工が新しく野球部を作る事になったんで、時間と暇がある
んだったら、監督を引き受けてくれないか?。 」と、監督をお願いした。
すると、 玉島商OBたちは、「 倉工の監督をするのだったら、 玉島商 の
監督をやれい 。」と、猛反発したという。当時、玉島は玉島市であり、倉敷への
対抗意識が、根強いものがあったようである。その後、 玉島商OBたちは、
三宅 宅三 倉工監督を容認。三宅の監督就任で、正式に 部 に昇格。
小沢ら、野球の申し子たちは、躍り上がって大歓喜。新興、倉工は三宅監督
就任で、またたく間に岡山県無敵となる。その、源流に戦前、最強の 玉島商
野球が存在していた。三宅監督の就任で、 玉島商 仕込みの猛練習だった。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏