校長室のボール 槌田 誠 ものがたり

母校の校長室に、一個の野球のボールが飾られています。そのボールは巨人に
入団した、 槌田 誠 選手が、昭和49年倉敷で行われた、阪急とのオープン戦
で、3本のホームランの中の1個であります。その、 槌田 誠選手 について紹介
したいと思います。
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エースを負傷で欠きながらも、炎の闘志で、甲子園切符を掴んだ昭和36年夏。
対 報徳学園戦 の時の正捕手。延長11回裏、6-5に追いかけられた時だった。
センターからのバックホームを後ろに逸らしてしまい、6点目のランナーがホームを踏んだ。
「あの時、完全にキャッチしていれば、もしかしたら勝っていたかもしれない。」
『借りを作った。このまま終わってなるものか。』
昭和38年、立教大学に進学。ある日、小沢監督が 立教大 に立ち寄った時の事。
槌田がブルペンで、バケツをひっくり返し座って、先輩投手の球を受けていた。「ここへ投げろ。」と。
ミットを構えたのだが、球はミットを少し外れてしまった。すると、槌田は 『 取って来い 』 と。
野性味が溢れ、野武士的な槌田。先輩にも一切の妥協を許さぬ、野球の鬼。昭和41年春。
13試合、45打数、20安打。戦後、二人目の打撃三冠王。リーグ優勝。
ベストナインと大活躍。そして、昭和41年、巨人ドラフト一位。
巨人V9のスタートの年だった。プロ初打席、満塁ホームランを含む、代打ホームラン通算4本。
槌田の打席は連敗阻止、完全試合阻止など、ここ一発で勝負強く、チームを救った。
昭和49年3月16日、 ふるさと倉敷 で阪急とのオープン戦で、3本のホームランの
離れ技を演じた。1本は場外の彼方へ。
1本目は、報徳学園戦の負い目を振り払い、
2本目は、恵まれなかったプロ人生の悔しさを打ち払い、
3本目は、恩師、先輩、友人、そして、少年達に夢を与えるスイングだったのかも。
公式記録にない3本連続ホームラン。そのうちの1つが校長室に。
常勝チームに不可欠な男。名門巨人軍V9を支えた男。
灼熱の季節を力の限り生き抜いた野武士、 槌田 誠。
確かに見た。後輩たちが死力で掴んだ甲子園を。平成11年1月7日、胃がんのため他界。
享年55歳。
「ジャイアンツ、選手の交代をお知らせします。9番、堀内に代わりまして、代打、槌田。背番号22。」
お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参 考  瀬戸内海放送 『 夢 フィールド 』
      OHK     『 旋風よふたたび 』
      山陽新聞社  『 灼熱の記憶 』