風雲の軌跡 よみがえれヒーロー 19

  

「 甲子園3本のホームラン男 藤沢新六 倉敷工 」

倉敷工バッテリー。 エース 小沢馨 と 捕手 藤沢新六。

二人は揃って阪神タイガースの入団テストに合格。プロへの道へと歩むことになる。

3月8日、阪神タイガース結成試合が行われ、藤沢は、早くも4番打者に抜擢された。

背番号は39。

しかし、1年が過ぎても、一軍からの呼び出しは来なかった。

そうした時 社会人野球の強豪 日鉄二瀬 から声を掛けられたのだった。

「 今の給料の2倍の給料をやるから、うちに来ないか?と言われましてね、それで阪神タイガースを

1年で辞めて 日鉄二瀬 に 小沢 と二人で行ったんです 」と藤沢。

「 日鉄二瀬は炭鉱の会社でした 」 日鉄二瀬 に移籍してすぐの事。

突然、小沢が藤沢に言った。「 藤沢、わしはもう倉敷に帰るからな 」と。

それは、倉敷市市長から、倉工の監督を要請されたためだったのである。

倉敷に帰った藤沢は 倉紡倉敷 で野球を続けていたある年 社会人野球の

最高峰の大会 都市対抗 に 岡山鉄道管理局 が出場。藤沢は補強選手としてチームに呼ばれた。

「 監督が私を 4番打者として使ってくれたんですよ 」 そして

「 都市対抗は、ベスト4が最高成績でした 」と胸を張る藤沢。

「 後楽園球場で行われる 都市対抗 は、当時においても ものすごい応援合戦でしたよ。 」と、熱く語る 藤沢。

その後、現役を退いても野球道を歩み続けた藤沢。

「 私は素晴らしい青春時代を過ごさせて頂きました。 」

野球の発展に尽くした 藤沢。

岡山県軟式野球連盟副会長、倉敷市体育協会野球部部長、倉敷市学童軟式野球連盟顧問を歴任。

甲子園3本のホームラン男 藤沢新六。

木製バット使用の大会では通算ホームラン最高成績を持つ 藤沢新六。

確かに見た。何回も。後輩たちが死力でつかんだ甲子園を。その目は いつも母校愛に満ちあふれ

大きく輝いていた。

忘れまじ。藤沢新六。

 

つづく  随時掲載。

 

お願い 本文に迫力を持たせたく 敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

 

参考  瀬戸内海放送  「夢 フィールド」

岡山放送     「旋風よ ふたたび」

山陽新聞社    「灼熱の記憶」

 

協力  小山 稔氏