「 甲子園3本のホームラン男 藤沢新六 倉敷工 」
倉敷工バッテリー。 エース 小沢馨 と 捕手 藤沢新六。
二人は揃って阪神タイガースの入団テストに合格。プロへの道へと歩むことになる。
3月8日、阪神タイガース結成試合が行われ、藤沢は、早くも4番打者に抜擢された。
背番号は39。
しかし、1年が過ぎても、一軍からの呼び出しは来なかった。
そうした時 社会人野球の強豪 日鉄二瀬 から声を掛けられたのだった。
「 今の給料の2倍の給料をやるから、うちに来ないか?と言われましてね、それで阪神タイガースを
1年で辞めて 日鉄二瀬 に 小沢 と二人で行ったんです 」と藤沢。
「 日鉄二瀬は炭鉱の会社でした 」 日鉄二瀬 に移籍してすぐの事。
突然、小沢が藤沢に言った。「 藤沢、わしはもう倉敷に帰るからな 」と。
それは、倉敷市市長から、倉工の監督を要請されたためだったのである。
倉敷に帰った藤沢は 倉紡倉敷 で野球を続けていたある年 社会人野球の
最高峰の大会 都市対抗 に 岡山鉄道管理局 が出場。藤沢は補強選手としてチームに呼ばれた。
「 監督が私を 4番打者として使ってくれたんですよ 」 そして
「 都市対抗は、ベスト4が最高成績でした 」と胸を張る藤沢。
「 後楽園球場で行われる 都市対抗 は、当時においても ものすごい応援合戦でしたよ。 」と、熱く語る 藤沢。
その後、現役を退いても野球道を歩み続けた藤沢。
「 私は素晴らしい青春時代を過ごさせて頂きました。 」
野球の発展に尽くした 藤沢。
岡山県軟式野球連盟副会長、倉敷市体育協会野球部部長、倉敷市学童軟式野球連盟顧問を歴任。
甲子園3本のホームラン男 藤沢新六。
木製バット使用の大会では通算ホームラン最高成績を持つ 藤沢新六。
確かに見た。何回も。後輩たちが死力でつかんだ甲子園を。その目は いつも母校愛に満ちあふれ
大きく輝いていた。
忘れまじ。藤沢新六。
つづく 随時掲載。
お願い 本文に迫力を持たせたく 敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考 瀬戸内海放送 「夢 フィールド」
岡山放送 「旋風よ ふたたび」
山陽新聞社 「灼熱の記憶」
協力 小山 稔氏