風雲の奇跡 よみがえれヒーロー 24

「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
倉敷工監督 小沢 馨。   岡山東商監督 向井 正剛。
闘魂と百戦練磨が知略を巡らせ、執念を燃やす竜虎の激突。しかし、球場を離れると両者とも情に厚い 人格者 でもあった。 倉敷工 は、昭和42,43年 4季連続甲子園出場。
甲子園で数々のドラマを演じた 倉敷工 が 最も全国制覇に近づいたのが、昭和43年。今まで県球史に前例のない甲子園 春夏連続ベスト4。その快進撃は、街に満ち溢れるエネルギーと 歩 を合わせるかのようだった。しかし、あと1歩のところで惜しくも夢に届かず。
その日、倉敷が泣いた。昭和49年 小沢と向井が見つめる中、倉敷工 の純白のユニホームと岡山東商の白桃色のユニホームが甲子園を並んで行進。まさに壮観。だが、それは岡山県高校野球が群雄割拠の時代の 「 始まり  」 となるのである。小沢 の最後の甲子園出場は、昭和50年春。
豪腕 兼光を擁し、優勝候補の呼び声が高かったが、2回戦で 東海大相模 に 0-1 で惜敗。
この一戦、高熱でフラフラになりながらも歯を食いしばり、投げ抜いた 兼光 の姿に 小沢 は感涙。
「 よくやった。男の中の男 」と賛辞を贈ったのだった。希代の名監督が甲子園で見せた涙。
号泣する 小倉北 福島 の姿に戸惑った無欲の初出場。福島 の涙から「 かけるものの大きさ 」「 甲子園の夢の大きさ 」を知った 小沢。そして、兼光の 「 がんばり 」 に涙した 小沢。
小沢 には涙の物語に始まり、涙の物語で終わるものがあったのである。
そこには 四半世紀 が過ぎていた。
  つづく  随時掲載
お願い  本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考  瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
      OHK     「 旋風よ ふたたび 」
      山陽新聞社  「 灼熱の記憶 」
協 力  小山 稔氏