「 倉工野球部を作った男 小沢 馨 」
倉敷工監督 小沢 馨 岡山東商監督 向井 正剛
昭和40年、岡山東商、選抜優勝。県勢唯一の甲子園優勝。
当時は、 倉敷工 が県高校野球の盟主として君臨。
向井は、「 打倒 小沢。打倒 倉工 」を目指し、猛練習でチームを鍛えた。
「 倉工に勝たないと。あの男を倒さないと私の甲子園人生はない。 」と 向井。
向井 正剛。 監督として、春夏通算甲子園出場八回(部長として二回)。
優勝 一回。ベスト4 一回。国体優勝 一回。
小沢 馨。 同十五回。ベスト4 三回。ベスト8 一回。
ある年の 甲子園開会式リハーサル中 に、大会役員が全選手に言った。
「 岡山東商の行進を見習え。 」人々は言った。『 岡山東商 野球もマナーも日本一 』と。
マナーに力を注ぐ一方で 向井 は他校に先がけ合宿所を作り選手を鍛え抜いた。
その姿は 鬼気迫るものがあったという。「 小沢 さんは勝負師で、 向井は 教育者と言われていますが、
小沢さんも教えている時は教育者ですよ。でも勝負と言った時は、私よりも徹底していたかも
知れませんね。 」と 向井。先を越された 小沢。 岡山東商の選抜優勝の直後の春の県大会では
「 ここで岡山東商をたたかんと倉工の存在価値はない。今日が我々の甲子園だ。 」悲壮感にも似た
気持ちで臨み、準々決勝 5-3でライバルを倒す。
全国優勝で自信をつけ、甲子園出場の度にたくましくなる 向井。益々、老練さを加えていく 小沢。
二人の勝負は全国的にも知られ、岡山野球が最も光彩を放った時代を演出した。
岡山東商の甲子園優勝 の最大の功労者は、ライバル倉敷工監督 小沢 馨 と言えるかもしれない。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 瀬戸内海放送 「 夢 フィールド 」
OHK 「 旋風よ ふたたび 」
山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 小山 稔氏