2008年、20年間倉工野球部監督を努めた和泉利典が、総監督に。そして、部長の中山隆幸が監督に就任する。また、中山の一学年上の和泉と二つ先輩のOB神土秀樹がコーチに。3人は現役時代同じ倉敷工のユニホームを着て白球を追った間柄。同じ絆で結ばれたスタッフが、新たな伝統を築くのだ。昭和50年春の選抜甲子園に出場した神土。開会式直後の開幕試合で中京大中京と対戦。壮絶な戦いで16対15の勝利を飾り、二回戦では、猛打東海大相模と対戦し0対1で惜敗した時の正ショート。(新2年生)【当HPおいまつ会トップページの中『風雲の奇跡涙の甲子園』を参照して下さい。】神土は、卒業後社会人野球川崎製鉄水島「現JFE西日本」に入団。川鉄水島にとって社会人野球最高峰の大会都市対抗に出場するのは悲願の中の悲願だった。
迎えた、昭和59年都市対抗中国地区予選代表決定戦。4対3と川鉄水島がリードしていた。8回表二死ランナー1.3塁で神土が打席に入った。祈る思いで、大声援を送る川鉄水島の大応援団。すると神土の一撃は、レフトオーバーの3ランホームランとなった。都市対抗出場が決定的となった神土の3ランホームラン。「3ランホームランを打って、一塁ベースの所でヘルメットを取って持って走っていました。僕は、公式戦、練習試合を含めて6本しか打ってないんです。その1本があの時の3ランなんです。」奇跡のようなプレーが起こるのは、それを呼び込めるだけの努力をした選手だからである。こうして、倉敷市代表として川崎製鉄水島は、都市対抗に初出場した。神土は、18年間も野球部に在籍。終盤の5年間はコーチ兼任で活躍。今現在でも社員の中では、『神土の3ラン』として語り草となっている。神土は、職人かたぎで不調の選手を見つけると付きっ切りで面倒を見る。
中山が、監督に就任した時、こう切り出した。「スピード重視で行こう守備は早い動きで常にダブルプレーを狙い、攻撃では早いカウントから好球必打で。」を提案すると中山も「自分もやりたかったんです。」と意気投合。これでチームの基本方針が決まった。現役時代、中山と一塁でノックを受けていた和泉は「自分は補佐役。長く部長として支えてくれた中山を今度は自分が支える番。」と。
また、倉工野球部部員の父親で立ち上げた(バス友の会)。順番で、運転手を務め選手を遠征に連れて行く。中には、わざわざ大型免許を取得した人もいるほどの熱の入れよう。長く先輩たちが大切にして来たグラウンド内外の支援の輪が伝統校を支えて行く。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)
協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」