当、HPでは「熱闘甲子園今昔物語」と題して、春の選抜と夏の大会の隠れたエピソードを含め、もう一度振り返ってみる事にする。その第一回は、あの大逆転劇となった倉敷工対報徳学園からスタートしたい。
甲子園の逆転劇の中でも、最高のミラクルは、1961年(昭和36年)の夏の事だろう。勝敗を超えて、今なお語り継がれる名勝負。奇跡の大逆転劇となった一回戦の倉敷工対報徳学園は、夏が来るたび今でも話題に上がる。
試合は、倉敷工永山、報徳は左の酒井の投げ合いで、0対0の息詰まる投手戦が続いた。先手を取ったのは倉敷工。延長十一回表。一死満塁から主将松本の二塁打で2点を奪うと、一気に打線が爆発。この回一挙6点。
倉工ナインはもとより、アルプス席を埋めた大応援団も、倉敷工勝利を疑う者はいない。勝負あり。甲子園球場のスタンドの多く、いや全員がそう思っていた。
甲子園だけでなく、日本中の誰もが、そう思っていただろう。
延長十一回裏、報徳の攻撃。せめて1点を。報徳ナインはそう思った。その回疲れが見え始めた永山が、2点を許すと、本来のエース森脇に交代。
永山は、三塁手についた。森脇が、四球と安打で1点を許すと小沢監督は、三塁手永山を、マウンドに送った。「自分の役目は終わった。ホットしていた。」と永山。緊張の糸が、すでに切れていた永山は味方守備の乱れも手伝って、一挙3点を失い同点となった。大きくざわめく甲子園球場。そして、延長十二回裏、1点を奪われサヨナラゲーム。
信じられない幕切れとなった。
手中の勝利を逃がした投手交代劇。奇跡的な逆転劇の陰にあった、「友情物語」と、「両チームの温情。」高校野球というステージだからこそ生まれたドラマであったと言えよう。
当、HPでは、この倉敷工対報徳学園戦の中に隠されていたエピソード等を含め、もう一度振り返ってみる事にする。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注)現在、販売・放送はありません。
協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会