熱闘甲子園 今昔物語 2 伝説の記憶

1961年昭和36年7月1日。午後3時ごろだった。
この日は、強化合宿最後の日。「全員が、疲れのピークだったと思います。」と外野手の土倉。この時、思いもかけないアクシデントが襲う。
選手一人ひとりが、一球バントをしては一塁へ走る。一球バントをしたら一塁への繰り返しの練習だった。アクシデントは、その時起きたのだ。
エース森脇が、一塁側にバントした。主将で一塁手の松本がバント処理。
一塁へ走って来る森脇の足にタッチ。すると、森脇が転倒し、地面を2回転。うずくまる森脇。全員が駆け寄った。森脇は、右鎖骨骨折というアクシデントに見舞われたのだ。
34年夏の甲子園、国体の大舞台を1年生で経験。県下屈指、いや全国屈指の好投手といわれたエースの突然の負傷。
「これで甲子園もおしまいか。」
全選手に、重苦しい空気が伝わった。そんなある日の昼休みだった。
監督の小沢は、全選手を倉工グラウンドのバックネット裏に集合させた。
「森脇が投げられなくなった。投げられるのは8月以降とのこと。つまり甲子園に行かなくては、森脇は投げられない。そこで、誰を主戦として投げさせればいいか、みんなの意見を聞かせてほしい。」みんなは、下を向いて黙り込んだ。その時、センターで4番打者の鎌田が言った。
「僕らが守っていて、一番困るのは、フォワボールを出す事です。フォワボールを、出されるとリズムが狂います。その点で言うと、打撃投手をしている、2年生の永山が、コントロールがいいので、永山を立てるべきだと思います。」
すると全員が「そうだ。」とうなずいた。
急遽、主戦投手に選ばれた、2年生の三塁手で、打撃投手でもある永山。
強肩、制球力の良さを小沢も買った。一方で。小沢は次のように話す。「監督の私にも大きな責任があるんだけれど、松本には、その後大きな負担をかけさせてしまいました。」
『森脇に大けがをさせてしまった。』と一人で責任を背負い込んだ主将の松本。「どうか、監督さん。森脇を投げられるようにしてください。
もしも、この夏森脇が投げられなかったら、ワシは、一生涯森脇に頭が上がりません。どうか、監督さん、森脇を投げれるようにしてください。」と涙を流しながら小沢に訴えたのだった。小沢だけではない。
全選手にも泣きながら訴えた。「頼む。森脇を甲子園に連れて行ってほしい。」
その涙の思いがナインの心を動かす。森脇を「大舞台のマウンドへ」という思いが、大きく強くなっていったのだ。「森脇を、甲子園に連れて行こう。森脇と甲子園で戦うんだ。」ナインは奮起した。
こうして、県大会を迎えたのだが、初戦から延長戦になるなど苦戦の戦いが待っていた。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注)現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会