熱闘甲子園 今昔物語 3 伝説の記憶

急遽、主戦投手に選ばれた2年生の三塁手永山。新田中時代は投手。
強肩制球力の良さを監督の小沢は買った。
永山は、次のように話す。
「投げろ。と言われて県大会までには、何日間かの練習期間があったんですけど、投手としての経験という点では、不足していたと思います。」
一方、小沢は「永山よ。君は森脇の代わりではないんだ。永山一個人として投げろよ。」と指示。
これに対し永山は「小沢監督の指導もユニークで(早い球は、放るな。遅い球で勝負しろ。)とか(スライダーは、この様に握って投げなさい。)と色々と教わりながら、練習をしていきました。」
「スライダーの投げ方を教えたが、器用だったのですぐ覚えた。」と小沢。
永山の急成長に、「もしかしたら。」と監督の期待も膨らんだ。
「こうなったら、打線の力で森脇を甲子園に連れて行こう。」とナインも奮起。こうして迎えた県大会予選だった。

初戦は、笠岡商。「もう、一回戦の笠岡商に、負けるんじゃないかと思いましたよ。」と外野手の土倉。
笠岡商エース池田投手は、威力十分のストレートを右打者インコースに投げ込んで来た。打ちあえぐ倉工打線。8回が終わり、1対2で笠岡商リード。
9回倉工最後の攻撃。後がない倉敷工。
「ナインは、負けを覚悟したと思いますよ。」と内野手の岡田。【現倉工野球部OB会副会長】
9回、1対2で笠岡商リード。
しかも、一死ランナーなしの倉工。
ここで、岡田が四球を選び出塁する。
一死一塁。送りバント成功。
二死二塁。ここで、捕手の槌田が、左中間に打ち返す。
岡田が生還して、同点に追いつく。
その後、延長に入りやっとの事で勝利する。

「この試合経過は、かすかな記憶によるものです。」
笠岡商に勝利した倉敷工は、二回戦以後、打線が爆発。
県大会を突破して東中国大会に進出。
当時は、岡山と鳥取の上位2校が対戦し勝ち抜いた1校が甲子園に出場できたのである。
初戦は、鳥取の強豪米子東。
「何としても、森脇を、甲子園に連れて行きたい。」
ケガをさせた負い目を感じていた主将の松本は、そうメンバーに訴えたのだった。『森脇を甲子園へ』『森脇を甲子園に』一丸となった倉工は、9対7で米子東に打ち勝ち決勝に進む。
対米子東戦において松本は、神がかり的な大活躍を見せる。
決勝の相手は、岡山東商。
その決勝前夜だった。その夜、事件が起きる。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会