「病院から帰って来て(ユニホームに着替えて)ベンチに入ったんですけどベンチに入るのがイヤだったですね。ベンチに入りたくなかったんです。」
明日に、甲子園出場をかけた東中国大会決勝。対岡山東商。
その前夜だった。全員が寝静まっていたが、誰か一人いない事に気づいた小沢。
「誰かいないぞ。」全員が起きた。騒然となった。誰かが言った。「森脇がいない」
宿舎中を探し回った小沢。「森脇は、宿舎の中庭の石の上に座って泣いていました。」
「こんな、夜中に何をしているんか。」
「監督さん。今日ベンチにいてたまりませんでした。明日、倉敷に帰らして下さい。」
森脇は、涙を流しながら小沢に、訴えた。
「この、バカたれが。お前がいるから、みんな頑張っているんじゃないか。明日、お前がいなくて、何で勝てるか。」と叱責。小沢は、そう言ってなだめて森脇を寝かせたのだった。
こうして迎えた東中国大会決勝だった。
森脇は、投げられない自分と戦っていたのである。
倉敷から、大応援団が駆けつけた。
エース森脇を欠いての決勝進出。
昭和36年7月31日。
鳥取県公設野球場。この決勝の試合は、3対1で、岡山東商を下し、春夏合わせて6回め。2年ぶり3回めの甲子園出場を果たす。
倉敷工の勝利を決定づけたのは、七回、一死一三塁からの、Wスチールだった。
勝負のあやを知り尽くした、思い切った作戦。
「とにかく、投手の勝(永山勝利)のコントロールが、抜群だったんです。右打者の外角へのストレート。スライダーが、コーナー一杯に決まりましてね。コントロール抜群でした。」と、内野手の岡田。外野手の土倉は「森脇を欠いた中で、ここまで来たのだからどうしてもという気持ちが、東商さんより上まっていたのではないか、と思います。」
全国屈指のエースを、練習中の負傷により欠きながらも、炎の闘志と団結力で、予選を勝ち抜いた(昭和36年夏の)倉敷工。こうして、苦しみながら勝ち抜いて、ついに掴んだ
甲子園切符。松本が泣いた。倉工ナイン全員が泣いた。松本と森脇が抱き合った。
そして、森脇が「ありがとう。」監督の小沢は「チームワークの勝利です。」と。
そこにある夢。あこがれの舞台。歓喜の瞬間。そこが甲子園。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。
協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会