倉敷工 000 000 000 060 6
報 徳 000 000 000 061 7
勝敗を超えて、今日までも語れ継がれる名勝負。
昭和36年夏の甲子園。奇跡の大逆転となった倉敷工業対報徳学園戦は、夏が来る度に話題に上がる。手中の勝利を逃した、投手交代劇。
だが、その裏にこそ隠されたドラマがあったのだ。
ナインの気持ちは、一つ。
「森脇を、甲子園に連れて行く。」
そして「森脇と共に、甲子園で戦う。」
ナインの気持ちは、早くから、小沢監督にも伝わっていた。
「全員が、森脇を大舞台のマウンドへ。という思いで戦ったことで、実力以上の力を生んだ。」と主将の松本は言う。
その松本(故人)が、十一回先制点となる二塁打を打ち、「森脇を登板させてやってください。」と小沢監督に直訴。
こうして、あとアウト1つを残して投手交代は実現。
この場面は、小沢監督(故人)にとって脳裏に焼きついて離れられないという。
松本は、八回九回頃になった時、ベンチに帰って来ると「森脇を、森脇をお願いします。」と小沢監督に。
そして、十一回表だった。
「では、打って来い。森脇が投げられる状況をお前が作って来い。」
こうして迎えた、十一回表だった。松本は、先制点となる二塁打を打ったのだ。この時だった。小沢監督は、次の様に話す。
「二塁打を打った松本が、何と二塁ベースの上に正座して、手を合わせて『監督さん』と呼びかけた松本の姿に、私は身体が震えました。」
松本らナインは思いを小沢監督にぶつけたのだった。
しかし、ようやく球威を、取り戻し投げられるようになったばかりの森脇にとって「みんなの思いが、逆にプレッシャーになった。」
永山も、「三塁の守備に入り、自分の責任は果たした。ほっとしていた。」永山の再登板はあまりにも酷だった。
この時の、ラジオ中継のアナウンスは「永山疲れました。永山疲れています。」と絶叫している。
その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、ナイン全員が、小沢監督の帰りを待っていたのである。しかも、松本ら全員は、正座して小沢監督の帰りを待っていた。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承ください。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照してください。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。
協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会