(報徳学園戦の)「あの夜、小沢監督は夜遅くに帰って来たんです。」と内野手だった岡田(現倉工野球部OB会副会長)
「夜中の、11時頃だったと思いますよ。」
その夜、遅くに宿舎に帰って来た小沢監督。大広間のふすまを開けると思わず息を飲んだ。そこには、選手全員小沢監督の帰りを待っていた。
しかも、全員正座をして。「私は、その場に出くわして、私も正座をして、両手をついて申しました。」「(森脇に後を託す意味からも)あの時、永山をベンチに下しておくべきだった。」小沢監督は自分の采配ミスを、選手に謝ったのだった。
そして「申し訳ない。お前たちを、勝たしてやれんで、本当に申し訳ない。倉敷へ帰ったら、お互いことわりをしよう。『どうも、すみませんでした。』と。わしは何回も謝る。君らも、一回謝ってくれ。しかし、二度三度謝る必要はない。君らは、素晴らしい野球を見せてくれた。どうか、今日の敗戦を噛みしめて甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かそうではないか。活かしてくれよな。」そう言うと小沢監督は、両手をついて、頭を下げた。これに対して、主将の松本が「森脇を、出してくれてありがとうございました。」
すると、全選手が、「ありがとうございました。」
小沢監督の目に光るものがあった。采配ミスを謝る小沢監督に対し選手たちは、逆に「ありがとうございました。」と感謝の言葉を返したのだ。名勝負を飾るのに、ふさわしい友情ドラマ。
小沢監督は、負けたにもかかわらず『監督冥利につきる、試合だった。』と話した。
しかし、それ以上に勝負の世界は非常だった。小沢監督は、その後何年も何年も監督を続ける事になるのだが、試合に負けても決して、選手を責めなかったという。情に熱い人格者でもあったのだ。
報徳戦の後、森脇を責める仲間は誰もいなかった。外野手の土倉は「森脇が投げられるとは思っていなかったけど、一緒に甲子園に行きてえなあとずっと思っていた。甲子園で彼が投げた時は嬉しかったなあ。」
【全力を出し尽くして敗れた君たちには、何の責任もない。すべての責任は、私にある。どんな非難も、私一人が受け止める、それよりかは甲子園出場を果たした事を、君らの永い人生に活かしてほしい。】
弱冠30歳の青年指揮官の思いであった。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
本物語(実話)の詳細は、当HP、トップページのカテゴリー(画面右下)の中、『昭和36年のドラマ』を参照して下さい。
参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。
協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会