熱闘甲子園 今昔物語 11 伝説の記憶

夏が来る度、話題に上がる『倉敷工業 対 報徳学園』の一戦。
勝敗を超えて、語り継がれる名勝負。昭和36年夏の甲子園。
奇跡的な大逆転の裏に隠されていた友情物語。
そして、指揮官と選手との深い絆と信頼。
この倉敷工業と報徳学園戦は、高校野球が続く限り、永遠に語り継がれていくことだろう。
また、倉工にとっても、大きな財産である。
今回は、その後の二人の活躍ぶりに注目してみた。

【鎌田豊】
卒業後、法政大に進学。東京六大学リーグの在学中3回の優勝を経験。1963年秋季リーグで、慶応大との優勝決定戦を制する。

同年春秋ともに、ベストナインに選出される。
打率0.240、4本塁打、30打点。ベストナイン2回。1965年広島カープから3位指名を受け入団。走攻守とも優れた中距離打者として期待され、67年一軍に定着。五番打者として起用される。26試合に先発出場を果たす。その後、肩の故障もあり、1970年に引退。
18年間、倉敷で中古車販売をした後、1990年から千代田火災海上に勤務した。

【槌田誠】
報徳戦で、サヨナラ負けのホームインを某然と見送った槌田。
卒業後は、立教大に進学。4年時の1966年春季リーグで4番打者として、戦後2人めの三冠王を獲得。ベストナイン2回。
ドラフト1位で、巨人に入団。
大洋戦で敗色濃厚の時だった。巨人宮田投手の代打に起用された。
この時、自身プロ入り3打席めであったが、大洋森中投手のストレートをライナーで左中間席に打ち込んだ。槌田の初安打が代打満塁ホームランという派手なデビューを果たす。
控えが多かったが、ここ一番という時、代打の切り札として起用され、巨人V9の一翼を担った。
その槌田が、一試合3本塁打という離れ業を演じたのは、昭和49年3月。倉敷で行われた阪急とのオープン戦だった。その内の一本は、場外の彼方へと消えた。あの夏の辛い記憶と共に場外の彼方へだったのだろうか。故郷の大観衆が送る喝采の中、槌田は晴れやかな笑顔で、「親孝行ができました。」と胸を張った。
3本のホームランの中、1個のホームランボールが、今でも倉工校長室のショーケースの中に大事に飾られている。

(お願い)
当HP、カテゴリーの中、大分類「校長室のボール槌田誠物語」を参照して下さい。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
山陽新聞社「灼熱の記憶」
ベースボールマガジン社「不滅の名勝負3」
瀬戸内海放送番組「夢フィールド」
OHK番組「旋風よふたたび」
注】現在、販売放送はありません。

協力
和泉利典氏(元倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸氏(元倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校同窓会おいまつ会