熱闘甲子園 今昔物語 39 栄光の足跡 27

47回選抜高校野球大会(昭和50年選抜)

【概要】
1975
328日~46日出場29チーム
入場曲「おかあさん」
優勝 高知(高知) 準優勝東海大相模(神奈川)

倉敷工 1615 中京(開幕試合)
東海大相模 10 倉敷工(2回戦)

【おわりに2/2
母校の監督になり、名将、知将の名を欲しいままにした小沢馨。
最後の甲子園は、この昭和50年の選抜。剛腕、兼光を擁し優勝候補の呼び声が、高かったが、2回戦で東海大相模に、0対1で、惜敗。この一戦、高熱でフラフラになりながら、歯を喰いしばり、投げ抜いた兼光の姿に小沢は、感涙。
「男の中の男」と、賛辞を贈った。
希代の名監督が、甲子園で見せた涙。号泣する、福島の姿に戸惑った無欲の、昭和24年初出場から、四半世紀が過ぎていた。

「兼光が、高熱を出して倒れた彼が、強打の東海大の打線を、あれだけ押さえて、10という好ゲームになった、彼の頑張り、彼の精神的な強さ。私は、監督をしていて、本当に良かったなと。兼光がベストのコンディションでやったんならともかく。この様な悪条件の中でこういうピッチングができるという、こういう野球人、そういう高校野球だったと。私は、称えたかったんです。」

『名将小沢馨、最後の甲子園。主将大倉、捕手大本らの選手たちは最高のゲームを師に、捧げた。』

倉敷が生んだ、希代の野球人小沢馨。
小倉北、福島投手の涙に戸惑った、昭和24年最初の甲子園。
名将と言われた小沢も、福島投手が2度まで手にした優勝旗には、ついに届かず。そういう意味では、福島以上に悲運の人だった。しかし、最後の甲子園で、兼光らが小沢に見せた姿は、野球をこよなく愛する少年たちの、あこがれの、的にもなった事だろう。

「このボールで遊ぶというか。戯れるというか。これしかなかったんです。ですから、何としてもボール遊びがしたいと。それがチームに入り、ボール拾いから始まって一ランク一ランク上がって、野球のお陰で健康にもなれたし。
野球によって、一段一段自分を高めて行けたと思います。」

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(
)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(
)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会