昭和42年選抜に、繰り上げ出場となった頃である。
音楽部の、木村義夫 と 木元大一はある同じ悩みを抱えていた。それは、楽器が古すぎる事。
「中には、壊れているのもありました。」と木村。そこで、木村と木元は校長室に向かった。
「せっかく甲子園に行くのに、こんな楽器では恥をかきます。校長先生何とかして下さい。」と
小山俊雄校長に直訴したのだった。すると、小山校長は「よし、わかった。」と言って、ポンと
25万円を出して二人に渡した。25万円の大金をである。当時の25万円と言うと、現在では
おそらく、150万円近くになるのではなかろうか。早速、木村と木元の二人は、四国、高松市の
日本楽器に買いに走った。トランペット、サックス、トロンボーン等一式を買って帰ったのである。
そして、木村は思った。「ここまでしてくれたのだから、何か恩返しをしなければ。」と。
木村と木元は、「岡山県代表なのだから、岡山に関係ある曲で、しかも、倉工をPRできる曲を。」
と言う事で。こうして、生まれたのが 桃太郎 での応援だったのである。早速、木元が桃太郎の
曲をアレンジして、楽譜を部員に配った。そして、昭和42年選抜で初披露となったのである。
しかも、練習も応援団との打ち合わせも十分に出来ずに、ほぼぶっつけ本番。アルプス席で
すぐに演奏した。最初、倉工生は桃太郎の唄を歌っていたが、いつの間にか歓声が入るようになった。
「桃太郎さん 桃太郎さん (オー) お腰に付けた吉備団子 (オー) 一つ私に (く ら こ う)
それ以後桃太郎の応援は倉工名物となって、常に相手校を圧倒。ある年の甲子園出場が
決まった時、テレビ取材で応援団員が言った。「甲子園では、ランナーが一人でも出たら、すぐに
桃太郎をやります。」と。しかし、時代の流れと共に現在では使われていないのが残念。
桃太郎の応援を望む、倉工オールドファンは多い。
木元大一は、現在海外でジャズを教えて活躍中。25歳で、イギリスに渡ってトニーエバンス楽団に
入団。No.1のトランぺッターに。日本、イギリス、ドイツ、イタリア、スイス と、トランペット一本で
生きて来た男。管楽器なら、何でもござれ の、まれな才能も持ち合わせている。
現在は、スイスに定住。5か国が話せると言う。
お願い
本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
協 力
木村 義夫氏
小山 稔氏
ぶつだん 墓石 霊園 中原三法堂