【 甲子園 甲子園 甲子園。 絶対に 甲子園 に行くんだ 】
小沢監督に憧れ、倉工の 門 を叩いた 和泉。 倉工 に行けば 甲子園 に行ける。
夢 を追いかけた。「 倉工 の迫力ある 打力 打撃 に憧れましてね。 」と、和泉。
しかし、 小沢監督 の背中を、追いかける時間は、長くはなかった。いや、短かすぎた。
和泉 が、一年生の時 ( 10月 ) 小沢監督 が、引退してしまったのだ。選手たちは
『 小沢監督 の指導を受けたい 』『 そんな、はずじゃあないなのに 』と。
「 次は、誰が監督になるのか、心配でした。 」と、 和泉。 小沢監督 の後任に
当時、コーチだった、 脇田監督 が誕生した。しかし、 脇田監督 も、 和泉 が二年生
の、11月で、退任してしまった。主将だった 和泉。 和泉 の苦労は、ここから始まる。
在学中、二人の 指揮官 を失った 倉敷工野球部。 主将の和泉 は、 小沢 の
所へ行っては、 「 どんな、練習をしたらいいですか。」と、何回も何回も 足 を運んだ
という。冬場の 鶴形山の階段 は、きつい。部員の中には、「 監督もいないし、もう
帰ろう。 」と、言い出す者もいた。また、手を抜く者もいた。 和泉 は、訴えた。
「 俺たちが、 甲子園 に行くためには、ここで、頑張らないといけんのじゃ。
しっかり、走って足腰を鍛えよう。 」『 当時は、倉工のグランドで練習していまして。
サッカー部やラグビー部もいましてね。それで、打撃練習は、一人づつしかできなかったんです。』
と、和泉。その、打撃練習の時だった。同じ学年の 部員 に「 悪いが、打撃練習から
外れてくれんか。 」 和泉 の胸中は、いかなるものだったのか。こうして、指揮官の
いない月日は、流れた。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」
中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」
西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」