平成6年4月、頼もしきOBが母校に凱旋する。そのOBは 倉敷工在学中 から大いなる
夢を抱いていた。その夢とは、「 教師になる事。野球の指導者になる事。 」 卒業時には
約10社からなる 社会人野球 からの勧誘を断り、大学へ進学( 足利工大 )。野球部には
入らず、ひたすら学業に専念。そして、 野球の勉強 と 指導学 を独学で学んだ。
その努力が実り、 教員採用試験 に一発で合格。 東岡山工 笠岡工 を経て 母校 に
帰って来たのだった。その OB の名前は、 中山 隆幸。 倉敷工 に転勤命令を受けた
中山 は、すぐに 和泉 に電話した。 中山 から報告を受けた 和泉 の第一声は
「 ほんま か 」だった。【 コーチはいたんですが、外部コーチだったんですね。ですから学校
行事や授業と、練習の時間が合わなくて。コーチがいない時は、私一人で指導してたんです。
それで、監督経験がある 中山 が来てくれる事を聞いて、これで時間が合う 仲間 が
できたと、すっごく喜びましたよ。 】苦労に苦労を重ねていた 和泉 にとって何よりの 吉報
だったに違いない。一方、 中山 は、【 倉敷工で、指導する事になり、プレッシャーが
ありました。 】と言う。それは何故なのか。普通なら、母校で指導できる 喜び というのが
あるはず。なのに 【 プレッシャーがあった 】とは、どういう事なのだろうか。それは、次の事の様
に、思われる。まず1点めは、 笠岡工監督 の時の事。 倉敷工 に完封勝利。
また、甲子園初出場を果たす 岡山城東 に打ち勝って、県大会堂々の ベスト8 入りを
果たした 実績。2点めは、以前より周囲から常に 注目 されていた事。そして、3点めは
【 中山 が、うちに来たから 倉敷工 は必ず3年以内に 甲子園 に行きますよ 】と
倉敷工校長 が、周囲に語っていた事。それらの要因が重なり、プレッシャーを感じていた
のかもしれない。こうして、 倉敷工野球部部長 中山 隆幸。 倉敷工野球部監督
和泉 利典 のコンビ ( 和泉が一学年先輩 )が誕生したのである。そして、この二人のコンビ
で、 甲子園 で 倉敷工旋風 を巻き起こす事になる。しかし、 和泉 と 中山 らの
在学中の 倉敷工野球部 は、 順風満帆 ではなかった。これも、名門校ゆえの事で
あろうか。
つづく 随時掲載
お願い 本文に迫力を持たせたく、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい
参 考 山陽新聞社 「 灼熱の記憶 」
協 力 和泉 利典氏 「 元 倉敷工業高校野球部監督 」
中山 隆幸氏 「 前 倉敷工業高校野球部部長 監督 」
西川 剛正氏 「 現 倉敷工業高校野球部 コーチ 」