〚倉工野球の礎〛
「ひたすらに、フェアプレーで戦いました」
昭和二十四年、甲子園初出場でベスト4進出を決めた直後の、倉敷工・小沢馨主将の談話である。
この精神は、以後、倉工野球の礎となった。
〚名監督 涙の甲子園〛
母校の監督となり、名将、知将の名を欲しいままにした小沢馨が、監督として最後に甲子園へ出場したのは、昭和五十年春。
剛腕・兼光保明を擁し、優勝候補の呼び声が高かったが、2回戦で東海大相模に0対1で惜敗。この試合、高熱でふらふらになりながらも、歯を食いしばって投げ抜いた兼光の姿に、小沢は感涙しながら、「男の中の男」とたたえた。
希代の名監督が、甲子園で見せた涙。
号泣する小倉北・福島の涙に戸惑った、あの無欲の甲子園初出場から、四半世紀が過ぎていた。
〚指導者を輩出〛
昭和二十四年の大会は、後の岡山球界の指導者を多数輩出した点でも意義深い。
倉敷工、岡山東商の両校でコーチとして平松政次をはじめ、多くの選手を育てた妹尾求は、倉敷工の中軸打者として活躍した。
〚昭和二十四年夏、準々決勝〛
倉敷工 打 安 失
1 遊 林 6 1 1
2 右 渡辺 3 1 0
3 三 妹尾 4 2 0
4 中 横山 5 2 1
5 捕 藤沢 4 3 0
6 投 小沢 4 0 0
7 一 松浦 5 1 1
8 左 鳥越 5 0 0
9 二 池ヶ谷 5 2 0
本塁打 藤沢 2
三塁打 横山、渡辺
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つづく 随時掲載
参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」
参考
毎日新聞
山陽新聞
協力
硬式野球部OB会
おいまつ会




