白球100年 岡山の野球 8 「祝 関西高甲子園初出場 3」

〚倒れたエース〛
昭和二十三年夏 東中国大会決勝

関西  101 002 011|6
倉敷工 102 000 000|3

昭和二十三年の東中国大会決勝で、関西と優勝を争った倉敷工。そのエースが、翌年甲子園で活躍する小沢馨だった。

小柄ながら力投した小沢は、敗戦が決まり、ホームベースを挟んで整列したとき、関西ナイン一人一人と握手を交わし、「岡山の代表として頑張ってください。」と声を掛けた。

しかし、すでに疲労も限界を超えており、最後の選手と握手を交わしたところで、小沢はばったりとグラウンドに倒れ込んでしまった。

ひたむきに戦う姿と、勝負の後の爽やかさ。高校野球の素晴らしさを教えるエピソードでもある。

その後、小沢は関西ナインのためにと、自ら打撃投手を買って出たという。

〚初陣 関西高校〛

関西高校が甲子園の檜舞台に雄姿を見せたのは、昭和二十三年八月十三日、開会式直後の開幕試合であった。

相手は、同じく初出場の石巻(宮城)。汽車や船で駆け付けた大応援団も、開会式からアルプススタンドに陣取り、固唾をのんで試合開始を待った。試合が始まった。

そのとき、関西に――「伝説の第一球」が起こる。

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詳しくは、本ホームページ内カテゴリー〚風雲の軌跡〛をご参照ください。

つづく(随時掲載)

参考文献:「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参考:毎日新聞、山陽新聞
協力:岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会 おいまつ会

 

ラグビーに懸ける女子高校生の青春 倉工ラグビー部

真っ黒に日焼けした大きな笑顔に、真っ白な歯が眩しい。ラグビーに全力を注ぎ、楕円球を追いかける一人の女子生徒。倉工ラグビー部の男子に混じって、思い切りのタックルを仕掛ける。

その名前は、村上未和(E2B)。

村上は、社会人チーム「アタッターレ岡山」の選手としてプレーする一方で、倉工ラグビー部ではマネージャーとしてチームを支えている。ラグビーを始めたきっかけは、倉工ラグビー部の桐山青樹監督と小野剛志顧問から「ラグビーを一度体験してみないか」と誘われたことだった。実際に体験してみて、「ラグビーを本格的にしてみたい」と思ったという。

村上は「体を張れるところが好きです。タックルもスクラムも好きですね。楽しいです」と笑顔で語る。また、「コベルコカップに出場してみたいです。アタッターレ岡山は社会人チームですが、高校生もいます。もっと高校生にも入部してほしいですね」と続け、「ラグビー人口を増やしたいです」と力強く語った。

桐山青樹監督は「全国9ブロックで争う『コベルコカップ2026』で、中国地区選抜に選ばれる選手へと成長してほしいです」と期待を寄せる。その眼差しは鋭く、そして温かい。

なお、4月現在、倉工ラグビー部は1年生の大量入部もあり27人。女子マネージャーは村上を含め4人、計31人で花園を目指す。

がんばれ、倉工。
前へ、倉工ラグビー部。

 

祝 甲子園出場 倉工軟式野球部

日本高等学校野球連盟では、「第2回春の軟式野球交流大会 IN 甲子園」を、令和8年5月4日、阪神甲子園球場で開催し、本交流試合に出場する東日本・西日本選抜チームを編成しました。

また、チームの選手選考にあたっては、東日本・西日本選抜チームの選抜委員会が担当し、令和7年度各秋季地区大会の内容を参考に選考しました。

その結果、交流試合実行委員会での審議を経て、倉敷工業高校軟式野球部エース山田遥斗投手が選出されました。

【概要】
1 選手氏名 倉敷工業高校軟式野球部 山田遥斗
2 日程 5月4日(月・祝)/予備日5月5日(火・祝)
3 会場 阪神甲子園球場

【山田遥斗投手】
球場が違っても、自分の投球を心掛けたいです。得意球はツーシームです。甲子園は硬式のみと思っていましたが、軟式でも出場できるようになり、嬉しいです。西日本選抜チームの雰囲気を感じ取り、自チームに伝えたいです。人生一度きりの経験なので、楽しみたいと思います。

【和泉利典監督】
素晴らしい球場での試合となるので、中国地区の代表として頑張ってほしいです。そして、この経験を通じて、人間的にも成長してほしいと思います。(元硬式野球部監督)

〚春の軟式野球交流試合 IN 甲子園〛
本交流試合は、昨年5月、軟式野球の全国大会70周年記念事業として、東日本・西日本の各チームから25名の選抜チームを編成して実施されました。参加した選手や指導者、関係者らの意見をもとに、本交流試合が高校軟式野球のさらなる普及・振興につながるものとして、第2回大会を実施するものです。

がんばれ倉工
めざせ全国大会、国スポ
倉工軟式野球部

 

白球100年 岡山の野球 7 「祝 関西高甲子園初出場 2」

〚決勝は、岡山対決〛

期待どおり、関西は県大会を危なげなく勝ち進み、七月末から行われた東中国大会でも、初戦の倉吉一、準決勝の松江一を全く寄せ付けず、決勝へ進出する。
岡山対決となった決勝では、倉敷工を6-3で下し、念願の甲子園初出場となる。

関 西 101 002 011 6
倉敷工 102 000 000 3

戦後初、しかも岡山県勢初の甲子園。グラウンドで喜びを爆発させる関西の選手のみならず、県全体が熱狂の渦に包まれたと言っても言い過ぎではないだろう。

〚岡山駅頭〛

県勢初の甲子園出場を果たし、岡山駅頭で送られる関西ナイン 昭和23年8月9日

八月九日、関西ナインを見送ろうと、岡山駅頭は黒山の人だかりで埋まった。中央には、選手たちの晴れやかな顔が並ぶ。野球部部長だった河田勇の謝辞にも力がこもる。
「まだ戦後の混乱が覚めやらぬ時代。明るい話題に飢えていたのでしょうか。あの盛大な応援は、今でも忘れられない。」と河田は言う。

午前九時十分、県民の期待を一身に集めて、関西ナインはまだ見ぬ夢舞台へと旅立つ。初出場の関西に、「伝説の第一球」が待っていた。この「伝説の第一球」は、今でも語り草となっている。
また、決勝で敗れた倉敷工には、倒れたエースがいた。

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つづく 随時掲載

参考文献 「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参 考  毎日新聞、山陽新聞
協 力  岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 6 「祝 関西高甲子園初出場 1」

〚天の時・地の利・人の和〛
昭和23年春、当時の県野球協会理事長・菊池三郎は、思わずこう言った。
「天の時・地の利・人の和」と。
大正10年、岡山一中(現・朝日高校)の鳴尾大会(甲子園大会の前身)出場があるだけで、長らく甲子園の土を踏めなかった岡山にとって、悲願達成に絶好の機会が訪れた。
しかも会場は菊池の母校・関西高校球場であり、その意気込みは相当なものであったに違いない。

〚学制改革〛
5年制であった旧制中学校は、中学3年・新制高校3年へと改められた。
また、この年、大会名称も「全国中等学校野球大会」から「全国高等学校野球大会」へと変更された。
この制度改革により、本来卒業予定であった中学5年生も、そのまま新制高校に1年在籍することが認められた。
明治大学の選手による指導を受けるなど猛練習を重ね、着実に力をつけていた関西高校は、昭和22年には練習試合ながら岐阜商業をはじめ全国の強豪校を次々に撃破していた。

その主力メンバーがそのまま残ることとなり、まさに「天の時」であった。

〚山陽大会から東中国大会へ〛
予選の地区割りも山陽大会から東中国大会へと変更された。
これまで岡山の前に立ちはだかっていた広島・山口との対戦がなくなり、鳥取・島根と代表権を争う形となった。

〚最後は抽選で〛
第1回東中国大会の会場決定を巡っては、「出場校数から見て岡山が妥当」「山陰には適当な球場がない」とする岡山側に対し、「地区割り変更がなければ昭和23年は松江開催と決まっていた」とする山陰側が対立した。
最終的には抽選となり、県連盟会長・高畑浅次郎が当たりくじを引き、関西高校球場での開催が決定した。
「地の利」に加え、用具・資金・OB会組織といった「人の和」も充実していった。
選手たちは全員、甲子園出場への確かな手応えを感じていた。
期待どおり関西高校は岡山県大会を勝ち進み、東中国大会へと進出した。

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つづく(随時掲載)

参考文献:「球譜一世紀」「灼熱の記憶」

参考:毎日新聞、山陽新聞

協力:岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会(おいまつ会)

 

白球100年 岡山の野球 5 「高野連発足」

岡山の球児たちが、グラウンドに帰って来た。
悲惨な戦争による空白を乗り越えて。

昭和21年7月24日、関西中球場。戦後初めての全国中等学校野球大会県予選の開会式が行われた。

食糧難による栄養不足から、痩せた選手が多く、あり合わせの布やテントの切れ端で作った各自ばらばらのユニホームで、スパイクの代わりに地下足袋という華やかさとはほど遠いセレモニーだったという。しかし、選手の顔は大会に参加できる喜びで輝いていたのだった。

〚活気 活気 活気〛
〚待ってました〛

廃墟の中から立ち上がった岡山野球界は、終戦の翌年のこの年、一気に活気を帯びることになる。2月、「全国中等学校野球連盟」が誕生した。

これを受け、岡山でも玉島商の齋藤信三郎校長らが中心となって、「岡山県中等学校野球連盟創立」の準備を始める。玉島商野球部部長だった福井啓一は、「岡山と違って、うちは空襲を受けず、組織的に動きやすかったので、主体的に働きかけをしたが、どの学校も『待ってました』という感じでした」と、当時を思い起こす。

5月18日、玉島商で創立準備会。6月24日、岡山一中(現・朝日高校)で創立総会を開催。県下21校が加盟して現在までの基礎が確立した。初代会長には高畑浅次郎岡山一中校長が就任。直ちに「全国中等学校野球連盟」に加盟する。

〚決勝は、ニ中対市商〛

こうして迎えた県予選(関西中、六高球場)だった。決勝は、岡山二中(現・操山高校)対岡山一商(現・岡山東商)。延長10回表、二中が4点を入れ優勝。OBたちの献身的な世話が大きかったという。

岡山一中 002 010 040 4 11
岡山一商 200 012 020 0 7

岡山二中は、山陽大会決勝で、下関商に敗れ、惜しくも甲子園初出場にはならなかった。

下関商  410 031 001 10
岡山二中 000 010 001 2

また、11月、「第1回京都秋季国民大会の軟式野球大会」で、玉島モタエクラブが準優勝の快挙を達成する。

こうして、23年、関西高校の戦後初の甲子園出場が実現する。

【お願い】当ホームページ内カテゴリーの中、〚風雲の軌跡〛を参照してください。

つづく
随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 4 「廃墟の中で 2 最終回」

〚道具類の不足〛

なかなか揃わなかったのが道具類。球児たちは焼け残りだけでは当然足りず、先輩から寄付を受けたり、ヤミ市で手に入れたり、進駐軍からお下がりを調達したのだった。

岡山一中(現 朝日高校)の選手だった河田は「ボールはとても貴重品で、何回縫い直したかわからない」と言う。

〚試合再開へ向けて〛

試合再開へ向け、最初ののろしを上げたのは野球部OBたちだった。関西中、岡山一商(現 岡山東商)、玉島商などの出身者が中心になって、岡山進駐軍とオール岡山との親善試合を計画した。しかし、この試合は都合で中止になってしまう。

その代わりに、3チームで10月23日、岡山一商球場でリーグ戦を実施する。(山陽新聞の前身、合同新聞主催)これが戦後最初の野球試合と言われている。

〚大観衆〛

〚野球ができる喜び〛

合同新聞によると「観衆は3,000人。久々の美技快打に熱狂し」とある。リーグ戦は岡山一商OBが優勝したが、選手そして観衆は、勝敗よりも野球ができる喜びに酔いしれたのだった。

玉島商OBの主将、大野仁之助は「みんな重いものから解放された感じで、本当に生き生きしていたねえ」と話す。

中等学校の方も、12月9日に岡山一中、岡山二中(現 操山高校)、岡山一商、市商(現 岡山東商)がトーナメントを実施した。

岡山野球界は復活へ向けて、確かな歩みを刻み始めていくことになる。

つづく
随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 3 「廃墟の中で 1 」

昭和20年8月15日、終戦。

戦争は数多くの人命と財産を奪い、野球界でも不出世の大投手・沢村栄治らの名選手が散っていった。しかし、終戦は今日の野球繁栄のスタートでもあった。

沢村栄治投手(読売ジャイアンツ)1944年没

〚野球ができる喜び〛

「戦争には負けた。しかし、これから平和な時代が来る。生徒たちと一緒に野球ができる」

敵機来襲におびえる心配のない空を見上げ、つぶやいた1人の教師がいた。玉島商野球部部長、福井哲二である。戦争中、適性運動の部長で、しかも英語の教師という立場で、言うに言われぬ苦労を味わった。福井の胸に、昭和11年全国中等学校野球大会県予選で玉島商が初優勝したときの興奮がよみがえった。

〚倉庫にボールやバットが〛

福井は、野球部を解散した昭和18年に学校の倉庫へこっそり隠していたボール、バット、グラブなどを取り出した。終戦の日からわずか2、3日後のことだった。

「まさか、たった2年で再び野球がやれるようになるとは、嬉しかった」

福井は感慨深げに、その時のことを思い起こす。呼びかけにより、元の部員たちも徐々に戻ってきた。

〚復活に燃える球児〛

〚名門チームも練習再開〛

関西中、岡山一中(現・朝日高校)など戦前の名門チームも、終戦後の立ち上がりは早く、この秋からすでに練習を再開している。

岡山は6月29日に空襲を受け、旧市内の大部分が焼失。まさに焦土からの復活だった。岡山一中は焼け跡の空き地で、関西中はイモ畑になっていたグラウンドを整備してからの出発だった。

現在の岡山市北区内山下付近にあった岡山市公会堂(現:岡山県庁)から公会堂筋(県庁通り)を西望。 焼け残った建物は画面左から天満屋、中国銀行、日赤病院。画面右手前は岡山市立岡山女子商業学校(現:岡山県立図書館)の跡。

こうして、終戦後最初の野球大会が開催されることになっていく。

つづく(随時掲載)

参考文献
『球譜一世紀』
『灼熱の記憶』

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 2 「関西中球場」

岡山市西崎本町の関西高校。西、北側にコンクリート製のスタンドを備えたグラウンドは、昭和初期から終戦直後まで、プロ野球など数多くの好勝負を生んだ。「岡山野球のメッカ」である。
周囲を緑に囲まれたグラウンドを駆け回るのは、今では関西高校の生徒のみだが、その中に立つと、かつての興奮がよみがえってくる。

【昭和3年に着手】

「今上陛下御大典記念事業」として、関西高校の前身である関西中がグラウンド建設に着手したのは、昭和3年のこと。「私学教育の独自性」を唱えた12代校長、佐藤富三郎が下した大英断だった。

【石ころだらけの球場】【甲子園をモデルに】

当時の岡山市内で野球大会ができたのは第六高等学校(現・岡山朝日高校)ぐらい。上伊福、奥市球場が練習試合に使われていたが、石ころだらけで、球場と呼べるものではなかった。六高でさえ、観衆の試合見物にとっては、はなはだ不満足なものだった。
そんな中、大正13年に完成した甲子園球場をモデルに、なだらかな扇状台地という地形を利用し、スタンド付き球場を造ろうというのだから、まさに画期的な試みといえた。

【県下一の大球場の誕生】

(昭和)5年9月。グラウンド西側に立つ拡張記念碑に、完成月が刻まれている。総工費は5万9,000円。総面積は現在の県営球場の約3分の2だが、当時としては、県下一の大球場の誕生だった。

【グラウンド開き】

昭和5年11月10日、グラウンド開きとして「明治大―同志社大」の記念試合を行った。出来立ての関西中グラウンドを埋めた3,000人の大観衆も、初めて見るスター選手のプレーに熱狂した。
昭和24年に倉敷市営球場、26年に岡山県営球場が完成するまで、大試合の舞台といえば、関西中球場だった。

随時掲載

参考文献 「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参考   毎日新聞、山陽新聞
協力   岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 1 「ラジオ中継」

大正から昭和へ、電波とともに広がった野球熱
大正から昭和へ、時代は変わった。

明治28年、関西中で産声を上げた岡山県下の野球も30年を経過した。中等野球、軟式野球が活況を呈する中、競技人口とファン層は拡大。そこに、ラジオ中継という強力な援護が加わる。

〔甲子園から、第一声〕
〔甲子園から、電波が飛ぶ〕

最初の電波は、昭和2年8月13日、甲子園から飛んだ。日本放送協会大阪局が、第13回全国中等学校野球大会の中継放送を行ったのが始まりである。

実況アナウンス第1号は、魚谷忠。大阪市岡中の三塁手として全国大会出場を買われ、入局1年余りでの大抜擢だった。

開幕カードは、札幌一中 対 青森師範。この試合は、日本放送史に残る一戦となった。

〔バッター打ちました〕

当時、野球中継は至難の業とされていた。それに挑むスタッフの意気込みは相当なもので、局長自ら球場で陣頭指揮に当たったという。

「バッター打ちました。打ちました。いい当たりの三塁ゴロ。三塁手前進して掬い取り、いい球を投げアウト。」

手本のない中継放送であったが、回を追うごとに口も滑らかになったと伝えられている。

魚谷は、成功の秘密をこう明かしている。
「本番直前に、兵庫大会をスタンドで観戦しました。周りの観客に構わず、アナウンスの練習をしたんです。変人扱いされながらね。」

〔最初は、関西中対広陵戦〕

岡山放送局の電波に、岡山勢が最初に乗ったのは、昭和6年8月の中等野球山陽大会である。関西中 対 広陵戦を、岡山放送局が放送し、山陽新報に予告記事が掲載された。

準々決勝は、関西中が猛打の広陵の前に6回コールド。11対0の大敗であった。関西中のプレーに歯ぎしりしながら聞き入るファンの姿が、今も思い起こされる。

*随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会