白球100年 岡山の野球 11 「初陣 倉敷工4強入り 2」

昭和24年 夏 準々決勝

小倉北 020 102 001 0 6
倉敷工 010 102 110 1 7
(延長10回)

夢破れてうなだれる小倉北ナイン。

「自分は肘を痛めていて、投げられる状態ではなかったが、打線の力で、もしかしたら優勝も、と思っていた」と、小倉北・福島一雄投手。

〚甲子園の土〛

試合後の挨拶を交わした後、マウンドに戻ってスパイクシューズ袋に土を詰めた福島。

今では当たり前になっている「甲子園の土」を持ち帰る風習も、これが最初だった。

〚すまなかった〛

「キープマイペース」を唱えながら、終始冷静な投球を続けた倉敷工・小沢馨投手。

「終わってみたら勝っていた。あの時、相手に悪いことをしたと思った」

薄暗い通路で、肩を震わせ泣いていた福島に、帽子を脱いで「すまなかった」と頭を下げた小沢だった。

〚3本塁打〛

本大会通算3本塁打を放った倉敷工・藤沢新六捕手。

昭和60年にPL学園・清原に破られるまで大会記録を保持していた藤沢。

県大会でも柵越え本塁打など打ったことのなかった五番打者。

「思いっきり振っただけ。最初のホームランは、審判に言われて気がついたほど」

と【無欲の勝利】を強調する。

〚準決勝 対岐阜戦〛

1対3とリードされた四回。1点を返し、さらに無死満塁のところで突然の雨。

翌日、再試合となった。

宿舎に帰った倉敷工ナインは、風呂の中で、

「これなら勝てる。優勝できるかも」

とはしゃぎ立てた。

【欲が出た】

再試合では、強振を続ける打線は空回り。頼みの小沢は連投の疲れで肘が上がらない。球は走らず、2対5で敗れた。

昭和24年夏 準決勝(再試合)

岐 阜 130 100 000 5
倉敷工 002 000 000 2

敗戦を決めた無情の雨。

「あの雨さえ無かったら。今でも雨の日には思い出す」と、小沢は言う。

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つづく 随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参 考
毎日新聞
山陽新聞

協 力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 10 「初陣 倉敷工4強入り 1」

〚 小さな町のチームが 〛
戦争の爪痕が色濃く残る昭和24年。
感激の初陣を果たしたチーム、倉敷工業野球部。
岡山県勢初のベスト4。
まだイ草のにおいが漂う小さな町のチームが、大きく、確かな第一歩を大甲子園へ。
〚 無 欲 〛
実力以上の力を引き出す無欲。
先を見て、足元をすくわれる欲。
昭和24年夏。甲子園出場を果たした倉敷工ほど、微妙な勝負のあやを体験したチームはないだろう。
昭和16年に創部された倉敷工野球部は戦中廃部。22年に野球好きが集まって再結成されたばかり。
開会式で、他県の選手が「倉敷ってどこ? 東北? 九州?」。
戦前の活躍予想も、出場23校中22番目のありさま。
それでも、好投手・小沢馨の得意球、縦のカーブ(ドロップ)は、小気味よく捕手・藤沢新六のミットに吸い込まれた。打線も尻上がりに調子を上げ、熊谷(埼玉)、高津(大阪)と連破。八強まで進んだ。

「小さな大投手」と呼ばれた倉敷工の小沢馨投手 昭和24年9月

〚 勝てるわけがない 〛
8月17日。迎えた準々決勝。
相手は、中京商(愛知)以来の3連覇を目指す小倉北(福岡)。春夏通算16勝を挙げた好投手・福島一雄を擁し、洗練された野球を展開する強豪だった。
知名度は雲泥の差。スタンドを埋めたファンも、倉敷工の勝利よりも善戦を期待していた。
倉敷工ナインも、この日「勝てるわけがない」と荷物をまとめて宿舎を出発。負けたら道頓堀辺りを観光して帰るつもりだった。だが、この開き直りが幸運を呼び込む。

小倉北 020 102 001 0  6
倉敷工 010 102 110 1  7
(延長12回)

息詰まるシーソーゲーム。
倉敷工の守備の乱れに乗じて、重盗、スクイズと多彩な攻めで先手先手と攻める小倉北に対して、2回、6回の藤沢新六の2本の本塁打をはじめ、長打で食い下がる倉敷工。
9回、ついに福島投手を降板に追い込んだ。
延長10回、二死満塁から横山剛の遊ゴロの間に決勝点を挙げ、熱戦に終止符を打った。

倉敷工の健闘を報じる山陽新聞 昭和24年8月18日付

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つづく  随時掲載

参考文献 『球譜一世紀』
『灼熱の記憶』

参 考  毎日新聞
山陽新聞

協 力  岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

令和8年度おいまつ会役員総会

令和8年5月17日(日)15時から倉敷ステーションホテルにて役員総会を開催しました。
議事は次の通り。

令和7年度会務報告
令和7年度決算報告
令和7年度監査報告
役員異動・紹介
令和8年度事業計画
令和8年度予算案

会長 日下誠(S44化学)

名誉会長 久松敬司校長

副会長(議長) 三好修一(S43精密)

事務局長 間野聡(S63電気)

会計 小野剛志(H23機械)

監査委員 守屋文明(S46電気)

ソフトテニス部OB会長 佐田野勝(S46化学)

バスケットボール部OB会長 鬼丸哲雄(S46精密)

副会長 三宅香(S49繊維)

企画委員 柳田哲(S51化学)岡山県議会議員

企画委員 塩田 健(H2精密)倉敷市会議員

企画委員 荒木竜二(S59電気)倉敷市議会議長

副会長 秋岡義典(S55電気)

副会長 和泉利典(S53精密)

副会長 中山隆幸(S54機械)

 

白球100年 岡山の野球 9 「祝 関西高甲子園初出場 4最終回」

〚 関西の甲子園初出場 〛
関西の甲子園初出場は、昭和23年8月13日。

全国の強豪に交じって更新する関西ナイン(左端) 昭和23年8月13日

開会式直後、関西はいきなり開幕試合に臨んだ。相手は、同じく初出場の石巻(宮城)だった。大応援団も開会式からアルプススタンドに陣取り、試合開始を待った。

〚 伝説の第一球 〛

プレーボールは午前10時20分。
先頭打者は、角南攻。
試合開始のサイレンが響く中、石巻・毛利投手の第1球。「絶対成功させる自信があった」というセーフティーバントを、三塁線へ鮮やかに転がした。
2番打者・吉田和之への第1球。さらに角南は、すかさず二盗。

県予選、東中国大会で見せた関西高が得意とした奇襲攻撃の成功に、ナインの緊張は一気にほぐれた。
この角南の第1球のセーフティーバントは、「角南の第1球」あるいは「角南のセーフティーバント」として、今なお語り継がれている。

〔関西-石巻〕4回表無死1、3塁から角南の3ゴロの間に3走の岡田生還(昭和23年8月13日)

関 西  310 300 200   9
石 巻  000 031 110   6

2回戦の相手は、天王寺(大阪)。
開催地・大阪代表だけに、大観衆は5万人を超え、バックネット裏まで天王寺の応援で埋まった。
「相手応援団の大歓声で、スタンドが揺れているようだった」と、エース吉田は振り返る。
エース吉田は、緊張からか球が走らず、初回に2点を奪われる。
華やかな天王寺高に対し、野武士軍団のような関西。2回に集中打で4点を奪い逆転した。
エース吉田は、持ち前の外角に落ちるカーブを武器に立ち直り、2回以降は無失点に抑え切った。
準々決勝では、大会ナンバーワン投手・福島一雄を擁する小倉北に、0対2で惜敗。しかし、初出場でベスト8。関西の快進撃は、予想をはるかに上回るものだった。
勢いに乗った関西は、秋の福岡国体でもベスト8入りを果たす。
無名だった岡山の名を全国に知らしめた関西の活躍は、戦後復興期の岡山球界にとって、願ってもない船出だったと言えよう。

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当ホームページ内カテゴリー「〚風雲の軌跡〛」をご参照ください。

つづく

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 8 「祝 関西高甲子園初出場 3」

〚倒れたエース〛
昭和二十三年夏 東中国大会決勝

関西  101 002 011|6
倉敷工 102 000 000|3

昭和二十三年の東中国大会決勝で、関西と優勝を争った倉敷工。そのエースが、翌年甲子園で活躍する小沢馨だった。

小柄ながら力投した小沢は、敗戦が決まり、ホームベースを挟んで整列したとき、関西ナイン一人一人と握手を交わし、「岡山の代表として頑張ってください。」と声を掛けた。

しかし、すでに疲労も限界を超えており、最後の選手と握手を交わしたところで、小沢はばったりとグラウンドに倒れ込んでしまった。

ひたむきに戦う姿と、勝負の後の爽やかさ。高校野球の素晴らしさを教えるエピソードでもある。

その後、小沢は関西ナインのためにと、自ら打撃投手を買って出たという。

〚初陣 関西高校〛

関西高校が甲子園の檜舞台に雄姿を見せたのは、昭和二十三年八月十三日、開会式直後の開幕試合であった。

相手は、同じく初出場の石巻(宮城)。汽車や船で駆け付けた大応援団も、開会式からアルプススタンドに陣取り、固唾をのんで試合開始を待った。試合が始まった。

そのとき、関西に――「伝説の第一球」が起こる。

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詳しくは、本ホームページ内カテゴリー〚風雲の軌跡〛をご参照ください。

つづく(随時掲載)

参考文献:「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参考:毎日新聞、山陽新聞
協力:岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会 おいまつ会

 

ラグビーに懸ける女子高校生の青春 倉工ラグビー部

真っ黒に日焼けした大きな笑顔に、真っ白な歯が眩しい。ラグビーに全力を注ぎ、楕円球を追いかける一人の女子生徒。倉工ラグビー部の男子に混じって、思い切りのタックルを仕掛ける。

その名前は、村上未和(E2B)。

村上は、社会人チーム「アタッターレ岡山」の選手としてプレーする一方で、倉工ラグビー部ではマネージャーとしてチームを支えている。ラグビーを始めたきっかけは、倉工ラグビー部の桐山青樹監督と小野剛志顧問から「ラグビーを一度体験してみないか」と誘われたことだった。実際に体験してみて、「ラグビーを本格的にしてみたい」と思ったという。

村上は「体を張れるところが好きです。タックルもスクラムも好きですね。楽しいです」と笑顔で語る。また、「コベルコカップに出場してみたいです。アタッターレ岡山は社会人チームですが、高校生もいます。もっと高校生にも入部してほしいですね」と続け、「ラグビー人口を増やしたいです」と力強く語った。

桐山青樹監督は「全国9ブロックで争う『コベルコカップ2026』で、中国地区選抜に選ばれる選手へと成長してほしいです」と期待を寄せる。その眼差しは鋭く、そして温かい。

なお、4月現在、倉工ラグビー部は1年生の大量入部もあり27人。女子マネージャーは村上を含め4人、計31人で花園を目指す。

がんばれ、倉工。
前へ、倉工ラグビー部。

 

祝 甲子園出場 倉工軟式野球部

日本高等学校野球連盟では、「第2回春の軟式野球交流大会 IN 甲子園」を、令和8年5月4日、阪神甲子園球場で開催し、本交流試合に出場する東日本・西日本選抜チームを編成しました。

また、チームの選手選考にあたっては、東日本・西日本選抜チームの選抜委員会が担当し、令和7年度各秋季地区大会の内容を参考に選考しました。

その結果、交流試合実行委員会での審議を経て、倉敷工業高校軟式野球部エース山田遥斗投手が選出されました。

【概要】
1 選手氏名 倉敷工業高校軟式野球部 山田遥斗
2 日程 5月4日(月・祝)/予備日5月5日(火・祝)
3 会場 阪神甲子園球場

【山田遥斗投手】
球場が違っても、自分の投球を心掛けたいです。得意球はツーシームです。甲子園は硬式のみと思っていましたが、軟式でも出場できるようになり、嬉しいです。西日本選抜チームの雰囲気を感じ取り、自チームに伝えたいです。人生一度きりの経験なので、楽しみたいと思います。

【和泉利典監督】
素晴らしい球場での試合となるので、中国地区の代表として頑張ってほしいです。そして、この経験を通じて、人間的にも成長してほしいと思います。(元硬式野球部監督)

〚春の軟式野球交流試合 IN 甲子園〛
本交流試合は、昨年5月、軟式野球の全国大会70周年記念事業として、東日本・西日本の各チームから25名の選抜チームを編成して実施されました。参加した選手や指導者、関係者らの意見をもとに、本交流試合が高校軟式野球のさらなる普及・振興につながるものとして、第2回大会を実施するものです。

がんばれ倉工
めざせ全国大会、国スポ
倉工軟式野球部

 

白球100年 岡山の野球 7 「祝 関西高甲子園初出場 2」

〚決勝は、岡山対決〛

期待どおり、関西は県大会を危なげなく勝ち進み、七月末から行われた東中国大会でも、初戦の倉吉一、準決勝の松江一を全く寄せ付けず、決勝へ進出する。
岡山対決となった決勝では、倉敷工を6-3で下し、念願の甲子園初出場となる。

関 西 101 002 011 6
倉敷工 102 000 000 3

戦後初、しかも岡山県勢初の甲子園。グラウンドで喜びを爆発させる関西の選手のみならず、県全体が熱狂の渦に包まれたと言っても言い過ぎではないだろう。

〚岡山駅頭〛

県勢初の甲子園出場を果たし、岡山駅頭で送られる関西ナイン 昭和23年8月9日

八月九日、関西ナインを見送ろうと、岡山駅頭は黒山の人だかりで埋まった。中央には、選手たちの晴れやかな顔が並ぶ。野球部部長だった河田勇の謝辞にも力がこもる。
「まだ戦後の混乱が覚めやらぬ時代。明るい話題に飢えていたのでしょうか。あの盛大な応援は、今でも忘れられない。」と河田は言う。

午前九時十分、県民の期待を一身に集めて、関西ナインはまだ見ぬ夢舞台へと旅立つ。初出場の関西に、「伝説の第一球」が待っていた。この「伝説の第一球」は、今でも語り草となっている。
また、決勝で敗れた倉敷工には、倒れたエースがいた。

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つづく 随時掲載

参考文献 「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参 考  毎日新聞、山陽新聞
協 力  岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 6 「祝 関西高甲子園初出場 1」

〚天の時・地の利・人の和〛
昭和23年春、当時の県野球協会理事長・菊池三郎は、思わずこう言った。
「天の時・地の利・人の和」と。
大正10年、岡山一中(現・朝日高校)の鳴尾大会(甲子園大会の前身)出場があるだけで、長らく甲子園の土を踏めなかった岡山にとって、悲願達成に絶好の機会が訪れた。
しかも会場は菊池の母校・関西高校球場であり、その意気込みは相当なものであったに違いない。

〚学制改革〛
5年制であった旧制中学校は、中学3年・新制高校3年へと改められた。
また、この年、大会名称も「全国中等学校野球大会」から「全国高等学校野球大会」へと変更された。
この制度改革により、本来卒業予定であった中学5年生も、そのまま新制高校に1年在籍することが認められた。
明治大学の選手による指導を受けるなど猛練習を重ね、着実に力をつけていた関西高校は、昭和22年には練習試合ながら岐阜商業をはじめ全国の強豪校を次々に撃破していた。

その主力メンバーがそのまま残ることとなり、まさに「天の時」であった。

〚山陽大会から東中国大会へ〛
予選の地区割りも山陽大会から東中国大会へと変更された。
これまで岡山の前に立ちはだかっていた広島・山口との対戦がなくなり、鳥取・島根と代表権を争う形となった。

〚最後は抽選で〛
第1回東中国大会の会場決定を巡っては、「出場校数から見て岡山が妥当」「山陰には適当な球場がない」とする岡山側に対し、「地区割り変更がなければ昭和23年は松江開催と決まっていた」とする山陰側が対立した。
最終的には抽選となり、県連盟会長・高畑浅次郎が当たりくじを引き、関西高校球場での開催が決定した。
「地の利」に加え、用具・資金・OB会組織といった「人の和」も充実していった。
選手たちは全員、甲子園出場への確かな手応えを感じていた。
期待どおり関西高校は岡山県大会を勝ち進み、東中国大会へと進出した。

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参考文献:「球譜一世紀」「灼熱の記憶」

参考:毎日新聞、山陽新聞

協力:岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会(おいまつ会)

 

白球100年 岡山の野球 5 「高野連発足」

岡山の球児たちが、グラウンドに帰って来た。
悲惨な戦争による空白を乗り越えて。

昭和21年7月24日、関西中球場。戦後初めての全国中等学校野球大会県予選の開会式が行われた。

食糧難による栄養不足から、痩せた選手が多く、あり合わせの布やテントの切れ端で作った各自ばらばらのユニホームで、スパイクの代わりに地下足袋という華やかさとはほど遠いセレモニーだったという。しかし、選手の顔は大会に参加できる喜びで輝いていたのだった。

〚活気 活気 活気〛
〚待ってました〛

廃墟の中から立ち上がった岡山野球界は、終戦の翌年のこの年、一気に活気を帯びることになる。2月、「全国中等学校野球連盟」が誕生した。

これを受け、岡山でも玉島商の齋藤信三郎校長らが中心となって、「岡山県中等学校野球連盟創立」の準備を始める。玉島商野球部部長だった福井啓一は、「岡山と違って、うちは空襲を受けず、組織的に動きやすかったので、主体的に働きかけをしたが、どの学校も『待ってました』という感じでした」と、当時を思い起こす。

5月18日、玉島商で創立準備会。6月24日、岡山一中(現・朝日高校)で創立総会を開催。県下21校が加盟して現在までの基礎が確立した。初代会長には高畑浅次郎岡山一中校長が就任。直ちに「全国中等学校野球連盟」に加盟する。

〚決勝は、ニ中対市商〛

こうして迎えた県予選(関西中、六高球場)だった。決勝は、岡山二中(現・操山高校)対岡山一商(現・岡山東商)。延長10回表、二中が4点を入れ優勝。OBたちの献身的な世話が大きかったという。

岡山一中 002 010 040 4 11
岡山一商 200 012 020 0 7

岡山二中は、山陽大会決勝で、下関商に敗れ、惜しくも甲子園初出場にはならなかった。

下関商  410 031 001 10
岡山二中 000 010 001 2

また、11月、「第1回京都秋季国民大会の軟式野球大会」で、玉島モタエクラブが準優勝の快挙を達成する。

こうして、23年、関西高校の戦後初の甲子園出場が実現する。

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つづく
随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会