ラグビーに懸ける女子高校生の青春 倉工ラグビー部

真っ黒に日焼けした大きな笑顔に、真っ白な歯が眩しい。ラグビーに全力を注ぎ、楕円球を追いかける一人の女子生徒。倉工ラグビー部の男子に混じって、思い切りのタックルを仕掛ける。

その名前は、村上未和(E2B)。

村上は、社会人チーム「アタッターレ岡山」の選手としてプレーする一方で、倉工ラグビー部ではマネージャーとしてチームを支えている。ラグビーを始めたきっかけは、倉工ラグビー部の桐山青樹監督と小野剛志顧問から「ラグビーを一度体験してみないか」と誘われたことだった。実際に体験してみて、「ラグビーを本格的にしてみたい」と思ったという。

村上は「体を張れるところが好きです。タックルもスクラムも好きですね。楽しいです」と笑顔で語る。また、「コベルコカップに出場してみたいです。アタッターレ岡山は社会人チームですが、高校生もいます。もっと高校生にも入部してほしいですね」と続け、「ラグビー人口を増やしたいです」と力強く語った。

桐山青樹監督は「全国9ブロックで争う『コベルコカップ2026』で、中国地区選抜に選ばれる選手へと成長してほしいです」と期待を寄せる。その眼差しは鋭く、そして温かい。

なお、4月現在、倉工ラグビー部は1年生の大量入部もあり27人。女子マネージャーは村上を含め4人、計31人で花園を目指す。

がんばれ、倉工。
前へ、倉工ラグビー部。

 

祝 甲子園出場 倉工軟式野球部

日本高等学校野球連盟では、「第2回春の軟式野球交流大会 IN 甲子園」を、令和8年5月4日、阪神甲子園球場で開催し、本交流試合に出場する東日本・西日本選抜チームを編成しました。

また、チームの選手選考にあたっては、東日本・西日本選抜チームの選抜委員会が担当し、令和7年度各秋季地区大会の内容を参考に選考しました。

その結果、交流試合実行委員会での審議を経て、倉敷工業高校軟式野球部エース山田遥斗投手が選出されました。

【概要】
1 選手氏名 倉敷工業高校軟式野球部 山田遥斗
2 日程 5月4日(月・祝)/予備日5月5日(火・祝)
3 会場 阪神甲子園球場

【山田遥斗投手】
球場が違っても、自分の投球を心掛けたいです。得意球はツーシームです。甲子園は硬式のみと思っていましたが、軟式でも出場できるようになり、嬉しいです。西日本選抜チームの雰囲気を感じ取り、自チームに伝えたいです。人生一度きりの経験なので、楽しみたいと思います。

【和泉利典監督】
素晴らしい球場での試合となるので、中国地区の代表として頑張ってほしいです。そして、この経験を通じて、人間的にも成長してほしいと思います。(元硬式野球部監督)

〚春の軟式野球交流試合 IN 甲子園〛
本交流試合は、昨年5月、軟式野球の全国大会70周年記念事業として、東日本・西日本の各チームから25名の選抜チームを編成して実施されました。参加した選手や指導者、関係者らの意見をもとに、本交流試合が高校軟式野球のさらなる普及・振興につながるものとして、第2回大会を実施するものです。

がんばれ倉工
めざせ全国大会、国スポ
倉工軟式野球部

 

白球100年 岡山の野球 7 「祝 関西高甲子園初出場 2」

〚決勝は、岡山対決〛

期待どおり、関西は県大会を危なげなく勝ち進み、七月末から行われた東中国大会でも、初戦の倉吉一、準決勝の松江一を全く寄せ付けず、決勝へ進出する。
岡山対決となった決勝では、倉敷工を6-3で下し、念願の甲子園初出場となる。

関 西 101 002 011 6
倉敷工 102 000 000 3

戦後初、しかも岡山県勢初の甲子園。グラウンドで喜びを爆発させる関西の選手のみならず、県全体が熱狂の渦に包まれたと言っても言い過ぎではないだろう。

〚岡山駅頭〛

県勢初の甲子園出場を果たし、岡山駅頭で送られる関西ナイン 昭和23年8月9日

八月九日、関西ナインを見送ろうと、岡山駅頭は黒山の人だかりで埋まった。中央には、選手たちの晴れやかな顔が並ぶ。野球部部長だった河田勇の謝辞にも力がこもる。
「まだ戦後の混乱が覚めやらぬ時代。明るい話題に飢えていたのでしょうか。あの盛大な応援は、今でも忘れられない。」と河田は言う。

午前九時十分、県民の期待を一身に集めて、関西ナインはまだ見ぬ夢舞台へと旅立つ。初出場の関西に、「伝説の第一球」が待っていた。この「伝説の第一球」は、今でも語り草となっている。
また、決勝で敗れた倉敷工には、倒れたエースがいた。

【お願い】
当ホームページ内カテゴリー〚風雲の軌跡〛を参照してください。

つづく 随時掲載

参考文献 「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参 考  毎日新聞、山陽新聞
協 力  岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 6 「祝 関西高甲子園初出場 1」

〚天の時・地の利・人の和〛
昭和23年春、当時の県野球協会理事長・菊池三郎は、思わずこう言った。
「天の時・地の利・人の和」と。
大正10年、岡山一中(現・朝日高校)の鳴尾大会(甲子園大会の前身)出場があるだけで、長らく甲子園の土を踏めなかった岡山にとって、悲願達成に絶好の機会が訪れた。
しかも会場は菊池の母校・関西高校球場であり、その意気込みは相当なものであったに違いない。

〚学制改革〛
5年制であった旧制中学校は、中学3年・新制高校3年へと改められた。
また、この年、大会名称も「全国中等学校野球大会」から「全国高等学校野球大会」へと変更された。
この制度改革により、本来卒業予定であった中学5年生も、そのまま新制高校に1年在籍することが認められた。
明治大学の選手による指導を受けるなど猛練習を重ね、着実に力をつけていた関西高校は、昭和22年には練習試合ながら岐阜商業をはじめ全国の強豪校を次々に撃破していた。

その主力メンバーがそのまま残ることとなり、まさに「天の時」であった。

〚山陽大会から東中国大会へ〛
予選の地区割りも山陽大会から東中国大会へと変更された。
これまで岡山の前に立ちはだかっていた広島・山口との対戦がなくなり、鳥取・島根と代表権を争う形となった。

〚最後は抽選で〛
第1回東中国大会の会場決定を巡っては、「出場校数から見て岡山が妥当」「山陰には適当な球場がない」とする岡山側に対し、「地区割り変更がなければ昭和23年は松江開催と決まっていた」とする山陰側が対立した。
最終的には抽選となり、県連盟会長・高畑浅次郎が当たりくじを引き、関西高校球場での開催が決定した。
「地の利」に加え、用具・資金・OB会組織といった「人の和」も充実していった。
選手たちは全員、甲子園出場への確かな手応えを感じていた。
期待どおり関西高校は岡山県大会を勝ち進み、東中国大会へと進出した。

【お願い】
当ホームページ内カテゴリー〚風雲の軌跡〛もあわせてご参照ください。

つづく(随時掲載)

参考文献:「球譜一世紀」「灼熱の記憶」

参考:毎日新聞、山陽新聞

協力:岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会(おいまつ会)