白球100年 岡山の野球 13 「甲子園の魔物 1」

〚魔物〛
大観衆を飲み込んだ甲子園のマンモススタンド。
一球ごとに地鳴りのような大歓声が沸き、銀傘にこだまする。さらに、郷土の期待を一身に背負う重圧。
「実際に甲子園の土を踏んだ者でないと、絶対にわからない。」
経験者は一様にそう話す。
さらに、独特の雰囲気が球児たちの平常心を奪う。
「こんなはずじゃない。」
相手チームだけでなく、「甲子園に住む魔物」にも敗れ、無念の涙を流した球児は数知れない。

〚岡山東商 秋山―土井〛
岡山東商から明治大、そして大洋まで、常に歩みをともにし、東京六大学では三度優勝。昭和35年には、大洋日本一の原動力となるなど、一時代を築いた名コンビである。
しかし、二人が初めて甲子園の舞台に立った昭和26年夏。
岡山東商の甲子園初陣は、まさに「甲子園に住む魔物」に飲み込まれた典型的なケースだった。

〚大正12年創部 岡山東商野球部〛
大正12年創部の岡山東商。
昭和26年夏、下手投げから抜群の球威で押すエース・秋山と、強肩・好リードの捕手・土井を中心に、悲願の甲子園初出場を果たす。
岡山東商の初戦は、怪童・中西太を軸とする打の高松一。
バッテリーを中心とした守りが持ち味の岡山東商。
練習試合では勝っており、自信を持って試合に臨んだ。――そのはずだった。

〚ところが――。〛
ナインの様子がおかしい。
土井は二塁への送球が届かない。
送球は横へそれる。
試合に入っても、ナインの硬さはほぐれない。
秋山は三者連続四球で無死満塁のピンチを招く。
ナインの足は地についていなかった。
そして、三回裏に悪夢が待ち受けていた。

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つづく

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ

白球100年 岡山の野球 12 「初陣 倉敷工4強入り 3」

〚倉工野球の礎〛
「ひたすらに、フェアプレーで戦いました」

昭和二十四年、甲子園初出場でベスト4進出を決めた直後の、倉敷工・小沢馨主将の談話である。

この精神は、以後、倉工野球の礎となった。

〚名監督 涙の甲子園〛

母校の監督となり、名将、知将の名を欲しいままにした小沢馨が、監督として最後に甲子園へ出場したのは、昭和五十年春。

剛腕・兼光保明を擁し、優勝候補の呼び声が高かったが、2回戦で東海大相模に0対1で惜敗。この試合、高熱でふらふらになりながらも、歯を食いしばって投げ抜いた兼光の姿に、小沢は感涙しながら、「男の中の男」とたたえた。

希代の名監督が、甲子園で見せた涙。

号泣する小倉北・福島の涙に戸惑った、あの無欲の甲子園初出場から、四半世紀が過ぎていた。

〚指導者を輩出〛

昭和二十四年の大会は、後の岡山球界の指導者を多数輩出した点でも意義深い。

倉敷工、岡山東商の両校でコーチとして平松政次をはじめ、多くの選手を育てた妹尾求は、倉敷工の中軸打者として活躍した。

〚昭和二十四年夏、準々決勝〛

倉敷工    打 安 失

1 遊 林   6 1 1
2 右 渡辺  3 1 0
3 三 妹尾  4 2 0
4 中 横山  5 2 1
5 捕 藤沢  4 3 0
6 投 小沢  4 0 0
7 一 松浦  5 1 1
8 左 鳥越  5 0 0
9 二 池ヶ谷 5 2 0

本塁打 藤沢 2
三塁打 横山、渡辺

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つづく 随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 11 「初陣 倉敷工4強入り 2」

昭和24年 夏 準々決勝

小倉北 020 102 001 0 6
倉敷工 010 102 110 1 7
(延長10回)

夢破れてうなだれる小倉北ナイン。

「自分は肘を痛めていて、投げられる状態ではなかったが、打線の力で、もしかしたら優勝も、と思っていた」と、小倉北・福島一雄投手。

〚甲子園の土〛

試合後の挨拶を交わした後、マウンドに戻ってスパイクシューズ袋に土を詰めた福島。

今では当たり前になっている「甲子園の土」を持ち帰る風習も、これが最初だった。

〚すまなかった〛

「キープマイペース」を唱えながら、終始冷静な投球を続けた倉敷工・小沢馨投手。

「終わってみたら勝っていた。あの時、相手に悪いことをしたと思った」

薄暗い通路で、肩を震わせ泣いていた福島に、帽子を脱いで「すまなかった」と頭を下げた小沢だった。

〚3本塁打〛

本大会通算3本塁打を放った倉敷工・藤沢新六捕手。

昭和60年にPL学園・清原に破られるまで大会記録を保持していた藤沢。

県大会でも柵越え本塁打など打ったことのなかった五番打者。

「思いっきり振っただけ。最初のホームランは、審判に言われて気がついたほど」

と【無欲の勝利】を強調する。

〚準決勝 対岐阜戦〛

1対3とリードされた四回。1点を返し、さらに無死満塁のところで突然の雨。

翌日、再試合となった。

宿舎に帰った倉敷工ナインは、風呂の中で、

「これなら勝てる。優勝できるかも」

とはしゃぎ立てた。

【欲が出た】

再試合では、強振を続ける打線は空回り。頼みの小沢は連投の疲れで肘が上がらない。球は走らず、2対5で敗れた。

昭和24年夏 準決勝(再試合)

岐 阜 130 100 000 5
倉敷工 002 000 000 2

敗戦を決めた無情の雨。

「あの雨さえ無かったら。今でも雨の日には思い出す」と、小沢は言う。

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つづく 随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参 考
毎日新聞
山陽新聞

協 力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 9 「祝 関西高甲子園初出場 4最終回」

〚 関西の甲子園初出場 〛
関西の甲子園初出場は、昭和23年8月13日。

全国の強豪に交じって更新する関西ナイン(左端) 昭和23年8月13日

開会式直後、関西はいきなり開幕試合に臨んだ。相手は、同じく初出場の石巻(宮城)だった。大応援団も開会式からアルプススタンドに陣取り、試合開始を待った。

〚 伝説の第一球 〛

プレーボールは午前10時20分。
先頭打者は、角南攻。
試合開始のサイレンが響く中、石巻・毛利投手の第1球。「絶対成功させる自信があった」というセーフティーバントを、三塁線へ鮮やかに転がした。
2番打者・吉田和之への第1球。さらに角南は、すかさず二盗。

県予選、東中国大会で見せた関西高が得意とした奇襲攻撃の成功に、ナインの緊張は一気にほぐれた。
この角南の第1球のセーフティーバントは、「角南の第1球」あるいは「角南のセーフティーバント」として、今なお語り継がれている。

〔関西-石巻〕4回表無死1、3塁から角南の3ゴロの間に3走の岡田生還(昭和23年8月13日)

関 西  310 300 200   9
石 巻  000 031 110   6

2回戦の相手は、天王寺(大阪)。
開催地・大阪代表だけに、大観衆は5万人を超え、バックネット裏まで天王寺の応援で埋まった。
「相手応援団の大歓声で、スタンドが揺れているようだった」と、エース吉田は振り返る。
エース吉田は、緊張からか球が走らず、初回に2点を奪われる。
華やかな天王寺高に対し、野武士軍団のような関西。2回に集中打で4点を奪い逆転した。
エース吉田は、持ち前の外角に落ちるカーブを武器に立ち直り、2回以降は無失点に抑え切った。
準々決勝では、大会ナンバーワン投手・福島一雄を擁する小倉北に、0対2で惜敗。しかし、初出場でベスト8。関西の快進撃は、予想をはるかに上回るものだった。
勢いに乗った関西は、秋の福岡国体でもベスト8入りを果たす。
無名だった岡山の名を全国に知らしめた関西の活躍は、戦後復興期の岡山球界にとって、願ってもない船出だったと言えよう。

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つづく

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 8 「祝 関西高甲子園初出場 3」

〚倒れたエース〛
昭和二十三年夏 東中国大会決勝

関西  101 002 011|6
倉敷工 102 000 000|3

昭和二十三年の東中国大会決勝で、関西と優勝を争った倉敷工。そのエースが、翌年甲子園で活躍する小沢馨だった。

小柄ながら力投した小沢は、敗戦が決まり、ホームベースを挟んで整列したとき、関西ナイン一人一人と握手を交わし、「岡山の代表として頑張ってください。」と声を掛けた。

しかし、すでに疲労も限界を超えており、最後の選手と握手を交わしたところで、小沢はばったりとグラウンドに倒れ込んでしまった。

ひたむきに戦う姿と、勝負の後の爽やかさ。高校野球の素晴らしさを教えるエピソードでもある。

その後、小沢は関西ナインのためにと、自ら打撃投手を買って出たという。

〚初陣 関西高校〛

関西高校が甲子園の檜舞台に雄姿を見せたのは、昭和二十三年八月十三日、開会式直後の開幕試合であった。

相手は、同じく初出場の石巻(宮城)。汽車や船で駆け付けた大応援団も、開会式からアルプススタンドに陣取り、固唾をのんで試合開始を待った。試合が始まった。

そのとき、関西に――「伝説の第一球」が起こる。

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つづく(随時掲載)

参考文献:「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参考:毎日新聞、山陽新聞
協力:岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会 おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 7 「祝 関西高甲子園初出場 2」

〚決勝は、岡山対決〛

期待どおり、関西は県大会を危なげなく勝ち進み、七月末から行われた東中国大会でも、初戦の倉吉一、準決勝の松江一を全く寄せ付けず、決勝へ進出する。
岡山対決となった決勝では、倉敷工を6-3で下し、念願の甲子園初出場となる。

関 西 101 002 011 6
倉敷工 102 000 000 3

戦後初、しかも岡山県勢初の甲子園。グラウンドで喜びを爆発させる関西の選手のみならず、県全体が熱狂の渦に包まれたと言っても言い過ぎではないだろう。

〚岡山駅頭〛

県勢初の甲子園出場を果たし、岡山駅頭で送られる関西ナイン 昭和23年8月9日

八月九日、関西ナインを見送ろうと、岡山駅頭は黒山の人だかりで埋まった。中央には、選手たちの晴れやかな顔が並ぶ。野球部部長だった河田勇の謝辞にも力がこもる。
「まだ戦後の混乱が覚めやらぬ時代。明るい話題に飢えていたのでしょうか。あの盛大な応援は、今でも忘れられない。」と河田は言う。

午前九時十分、県民の期待を一身に集めて、関西ナインはまだ見ぬ夢舞台へと旅立つ。初出場の関西に、「伝説の第一球」が待っていた。この「伝説の第一球」は、今でも語り草となっている。
また、決勝で敗れた倉敷工には、倒れたエースがいた。

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つづく 随時掲載

参考文献 「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参 考  毎日新聞、山陽新聞
協 力  岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 6 「祝 関西高甲子園初出場 1」

〚天の時・地の利・人の和〛
昭和23年春、当時の県野球協会理事長・菊池三郎は、思わずこう言った。
「天の時・地の利・人の和」と。
大正10年、岡山一中(現・朝日高校)の鳴尾大会(甲子園大会の前身)出場があるだけで、長らく甲子園の土を踏めなかった岡山にとって、悲願達成に絶好の機会が訪れた。
しかも会場は菊池の母校・関西高校球場であり、その意気込みは相当なものであったに違いない。

〚学制改革〛
5年制であった旧制中学校は、中学3年・新制高校3年へと改められた。
また、この年、大会名称も「全国中等学校野球大会」から「全国高等学校野球大会」へと変更された。
この制度改革により、本来卒業予定であった中学5年生も、そのまま新制高校に1年在籍することが認められた。
明治大学の選手による指導を受けるなど猛練習を重ね、着実に力をつけていた関西高校は、昭和22年には練習試合ながら岐阜商業をはじめ全国の強豪校を次々に撃破していた。

その主力メンバーがそのまま残ることとなり、まさに「天の時」であった。

〚山陽大会から東中国大会へ〛
予選の地区割りも山陽大会から東中国大会へと変更された。
これまで岡山の前に立ちはだかっていた広島・山口との対戦がなくなり、鳥取・島根と代表権を争う形となった。

〚最後は抽選で〛
第1回東中国大会の会場決定を巡っては、「出場校数から見て岡山が妥当」「山陰には適当な球場がない」とする岡山側に対し、「地区割り変更がなければ昭和23年は松江開催と決まっていた」とする山陰側が対立した。
最終的には抽選となり、県連盟会長・高畑浅次郎が当たりくじを引き、関西高校球場での開催が決定した。
「地の利」に加え、用具・資金・OB会組織といった「人の和」も充実していった。
選手たちは全員、甲子園出場への確かな手応えを感じていた。
期待どおり関西高校は岡山県大会を勝ち進み、東中国大会へと進出した。

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つづく(随時掲載)

参考文献:「球譜一世紀」「灼熱の記憶」

参考:毎日新聞、山陽新聞

協力:岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会(おいまつ会)

 

白球100年 岡山の野球 5 「高野連発足」

岡山の球児たちが、グラウンドに帰って来た。
悲惨な戦争による空白を乗り越えて。

昭和21年7月24日、関西中球場。戦後初めての全国中等学校野球大会県予選の開会式が行われた。

食糧難による栄養不足から、痩せた選手が多く、あり合わせの布やテントの切れ端で作った各自ばらばらのユニホームで、スパイクの代わりに地下足袋という華やかさとはほど遠いセレモニーだったという。しかし、選手の顔は大会に参加できる喜びで輝いていたのだった。

〚活気 活気 活気〛
〚待ってました〛

廃墟の中から立ち上がった岡山野球界は、終戦の翌年のこの年、一気に活気を帯びることになる。2月、「全国中等学校野球連盟」が誕生した。

これを受け、岡山でも玉島商の齋藤信三郎校長らが中心となって、「岡山県中等学校野球連盟創立」の準備を始める。玉島商野球部部長だった福井啓一は、「岡山と違って、うちは空襲を受けず、組織的に動きやすかったので、主体的に働きかけをしたが、どの学校も『待ってました』という感じでした」と、当時を思い起こす。

5月18日、玉島商で創立準備会。6月24日、岡山一中(現・朝日高校)で創立総会を開催。県下21校が加盟して現在までの基礎が確立した。初代会長には高畑浅次郎岡山一中校長が就任。直ちに「全国中等学校野球連盟」に加盟する。

〚決勝は、ニ中対市商〛

こうして迎えた県予選(関西中、六高球場)だった。決勝は、岡山二中(現・操山高校)対岡山一商(現・岡山東商)。延長10回表、二中が4点を入れ優勝。OBたちの献身的な世話が大きかったという。

岡山一中 002 010 040 4 11
岡山一商 200 012 020 0 7

岡山二中は、山陽大会決勝で、下関商に敗れ、惜しくも甲子園初出場にはならなかった。

下関商  410 031 001 10
岡山二中 000 010 001 2

また、11月、「第1回京都秋季国民大会の軟式野球大会」で、玉島モタエクラブが準優勝の快挙を達成する。

こうして、23年、関西高校の戦後初の甲子園出場が実現する。

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つづく
随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 4 「廃墟の中で 2 最終回」

〚道具類の不足〛

なかなか揃わなかったのが道具類。球児たちは焼け残りだけでは当然足りず、先輩から寄付を受けたり、ヤミ市で手に入れたり、進駐軍からお下がりを調達したのだった。

岡山一中(現 朝日高校)の選手だった河田は「ボールはとても貴重品で、何回縫い直したかわからない」と言う。

〚試合再開へ向けて〛

試合再開へ向け、最初ののろしを上げたのは野球部OBたちだった。関西中、岡山一商(現 岡山東商)、玉島商などの出身者が中心になって、岡山進駐軍とオール岡山との親善試合を計画した。しかし、この試合は都合で中止になってしまう。

その代わりに、3チームで10月23日、岡山一商球場でリーグ戦を実施する。(山陽新聞の前身、合同新聞主催)これが戦後最初の野球試合と言われている。

〚大観衆〛

〚野球ができる喜び〛

合同新聞によると「観衆は3,000人。久々の美技快打に熱狂し」とある。リーグ戦は岡山一商OBが優勝したが、選手そして観衆は、勝敗よりも野球ができる喜びに酔いしれたのだった。

玉島商OBの主将、大野仁之助は「みんな重いものから解放された感じで、本当に生き生きしていたねえ」と話す。

中等学校の方も、12月9日に岡山一中、岡山二中(現 操山高校)、岡山一商、市商(現 岡山東商)がトーナメントを実施した。

岡山野球界は復活へ向けて、確かな歩みを刻み始めていくことになる。

つづく
随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校
硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 3 「廃墟の中で 1 」

昭和20年8月15日、終戦。

戦争は数多くの人命と財産を奪い、野球界でも不出世の大投手・沢村栄治らの名選手が散っていった。しかし、終戦は今日の野球繁栄のスタートでもあった。

沢村栄治投手(読売ジャイアンツ)1944年没

〚野球ができる喜び〛

「戦争には負けた。しかし、これから平和な時代が来る。生徒たちと一緒に野球ができる」

敵機来襲におびえる心配のない空を見上げ、つぶやいた1人の教師がいた。玉島商野球部部長、福井哲二である。戦争中、適性運動の部長で、しかも英語の教師という立場で、言うに言われぬ苦労を味わった。福井の胸に、昭和11年全国中等学校野球大会県予選で玉島商が初優勝したときの興奮がよみがえった。

〚倉庫にボールやバットが〛

福井は、野球部を解散した昭和18年に学校の倉庫へこっそり隠していたボール、バット、グラブなどを取り出した。終戦の日からわずか2、3日後のことだった。

「まさか、たった2年で再び野球がやれるようになるとは、嬉しかった」

福井は感慨深げに、その時のことを思い起こす。呼びかけにより、元の部員たちも徐々に戻ってきた。

〚復活に燃える球児〛

〚名門チームも練習再開〛

関西中、岡山一中(現・朝日高校)など戦前の名門チームも、終戦後の立ち上がりは早く、この秋からすでに練習を再開している。

岡山は6月29日に空襲を受け、旧市内の大部分が焼失。まさに焦土からの復活だった。岡山一中は焼け跡の空き地で、関西中はイモ畑になっていたグラウンドを整備してからの出発だった。

現在の岡山市北区内山下付近にあった岡山市公会堂(現:岡山県庁)から公会堂筋(県庁通り)を西望。 焼け残った建物は画面左から天満屋、中国銀行、日赤病院。画面右手前は岡山市立岡山女子商業学校(現:岡山県立図書館)の跡。

こうして、終戦後最初の野球大会が開催されることになっていく。

つづく(随時掲載)

参考文献
『球譜一世紀』
『灼熱の記憶』

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会