白球100年 岡山の野球 17 「二刀流の倉工初代監督 3」

昭和21年11月。
戦後初の国民体育大会、第1回京都国民体育大会。
陸上競技、砲丸投げに出場した三宅宅三。
砲丸投げの記録は、14m21で、堂々第3位だった。
京都国体 軟式野球準優勝。砲丸投げ第3位。
国体伝説の豪傑。天下無双 三宅宅三。
〚 三宅に、運命の時が来る 〛
倉敷駅前で、書店を営んでいた三宅のところに、1人の人物が尋ねて来た。
その人物は、玉島モタエクラブ野球団で、軟式野球のチームメイトだった。そして、倉敷工業高校野球部部長でもあった。

しみじみと語る、三宅宅三元倉敷工監督

三宅は、次のように語る。
「【 三宅君、時間と暇があるんだったら、倉工で野球部を作るんで、教えてやってくれないか。】と言われて、それで引き受けて、監督をやるようになったんです。」
すると、玉島商野球部OB会は猛反対した。
盟友、玉島商OB大野仁之助は、
「当時、私は玉商の監督をやってて、【倉工の監督ができるんだったら、玉商の監督をやれい。】と、三宅と大喧嘩ですわ。」
「そしたら、三宅の奴は、すぐに県大会で優勝しやがって。ワシは、玉商のOBから袋叩きですわ。」
その後、玉島商野球部OB会は、三宅が倉工の監督を務めることを容認する。
三宅が率いる倉敷工業高校野球部は、昭和24年夏、甲子園初出場を果たし、ベスト4まで勝ち進んだ。

倉工ナイン。中央が、エース小沢投手。

倉工ナイン。中央が、エース小沢投手。

その快進撃の要因について、三宅は次のように語る。
「1番の特徴は、小沢という投手がいて、制球力が良くて、変化球のキレも良かった事でしょうね。そんなに早くはなかったけど、それであそこまで行ったんでしょう。」
「チームの特徴としては、打力があった事ですかね。甲子園で4本(藤沢3、妹尾1)のホームランは、当時としては珍しく、それまではなかったですからね。」
「練習の時は厳しくやったと思いますが、試合の時は、選手に自信をもたせるため、怒らないようにしたと思いますね。」
「(しばらく考えて)1つ叱ったら、2つ褒める。そんな指導をやったんではないか、と思います。」

倉工。小沢と藤沢のバッテリー。

一方、倉工エース小沢は、次のように語る。
「大きな身体の方で、野球のポジションならどこでもこなせる、運動神経抜群の方でした。それで、チャンスが来ようが、ピンチが来ようが、ベンチのど真ん中に座って【思い切ってやれ】の1声で、全てが押し切られました。」
甲子園から帰って来た三宅に、さらなる重大な運命が待っていた。

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つづく 随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 16 「二刀流の倉工初代監督 2」

昭和21年10月。戦後初の国民体育大会が京都で開催された。同大会、軟式野球競技に出場した玉島モタエクラブ野球団は、快進撃を続け、決勝戦に進出した。ところが、ここで困ったことが起こる。

野球と陸上砲丸投げの競技開始時間が、午後1時で重なっていたのである。

京都、西京極野球場と西京極陸上競技場は、200mも離れていない。球場では、決勝戦前のシートノックが始まっていた。

野球のユニフォーム姿の三宅宅三は、スタンドを乗り越えて、陸上のフィールド内に入った。

玉島モタエクラブ主将の大野仁之助は、「三宅が帰ってくるまで、ダラダラと長くシートノックをしましてね」と語っている。

 

一方、三宅は審判長に、「連続で、3回投げさせてください」と頼んだ。3回投げた三宅は、一目散に球場へ。

三宅は、東京オリンピックが戦争で中止となった無念を、国体にぶつけたのだった。

千両役者が戻り、球場では約30分遅れのプレイボールがかかった。結果は岐阜県庁に敗れ、準優勝。しかし、堂々の国体準優勝である。

玉島モタエクラブ野球団。千年の古都に足跡を残す。

港町玉島の剛腕、威風堂々、大野仁之助。その盟友、豪傑、天下無双、三宅宅三。

国体伝説の豪傑が、さらに甲子園で旋風を吹かすことになる。

大野は、激戦地で散った友の思いを胸に投げ抜き、母校・玉島商の監督を経て、岡山県高校野球審判協会を設立する。

港町玉島に陸揚げされた一個の白球が、数奇なドラマを作っていく。

【三宅に運命の時が】

倉敷駅前で本屋を営んでいた三宅のところに、一人の人物が訪ねてきた。

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つづく 随時掲載

参考文献 「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参 考  毎日新聞
山陽新聞

協 力  倉工硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 15 「二刀流の倉工初代監督 1」

三宅宅三さん

三宅宅三。
倉敷工野球部初代監督。砲丸投げの名選手。

〚豪傑 三宅宅三〛
玉島商―明治大―倉工監督―プロ野球

「上から読んでも、下から読んでも、同じ名前は?」
実際にクイズ番組に出た問題である。
正解は、「みやけたくぞう」。

元・中日ドラゴンズ編成部顧問、三宅宅三。
「父親が、覚えやすいようにと付けた」が由来というが、ユニークなのは名前だけではない。
野球と陸上競技の二刀流で、二足のわらじを履き、国民体育大会ではダブル表彰台という離れ業をやってのけた男。
その後、倉敷工野球部監督となり、昭和24年夏の甲子園に出場。チームをベスト4へ導く。
さらに一転してプロ野球選手となり、その後は名物スカウトとして数々の逸話を残した、岡山県球界きっての豪傑である。

第1回国体の西京極陸上競技場スタンドでユニホームの上にコートをはおって出番を待つ三宅さん(昭和21年11月)

〚野球と砲丸投げ〛

野球を本格的に始めたのは、玉島商時代。
180cmを超える筋肉隆々の体格を生かし、投手兼主砲として活躍した。
砲丸投げでは、全国中学陸上選手権大会で優勝。三年後に開催予定だった第12回東京オリンピックを目指そうとした矢先、戦況悪化のため大会は中止となった。
目標を失い、明治大では第二の道として野球を選ぶことになる。

〚快進撃 玉島モタエクラブ〛

終戦後、倉敷駅前で書店を開業。
玉島商OBで結成した「玉島モタエクラブ」に所属し、4番打者として活躍した。
「当時は、硬式も軟式もやっていました。」
と振り返るのは、まとめ役の大野仁之助。
昭和21年11月、戦後初の第1回京都国体軟式野球大会で、玉島モタエクラブは快進撃を続けた。
決勝へ進出した玉島モタエクラブ。
ここで、困ったことが起こる。

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参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

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岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
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白球100年 岡山の野球 14 「甲子園の魔物 2 最終回」

感激の入場行進。しかし、岡山東ナインにとってはつらい試合が待っていた。

三回裏に、悪夢が待ち受けていた。
秋山が、投げどもストライクが入らない。
押し出し。適時打。味方のエラーなどが出てメロメロ。
三点を与えて、三宅正にマウンドを譲った。
「目をつむって、真ん中へ放れ。」
と、言っても全然ダメだった、と監督だった松三暁平。

 

三宅正も打たれて、この回七点。四回、再びマウンドに戻った秋山だったが、今度は五安打を集中されて、四点を奪われ、七回には中西に、ダメ押しのランニング本塁打を浴びた。
秋山だけを責められない。打線は、わずか三安打。
秋山同様に、大荒れだった高松一の新井投手から、計十二四死球ももらいながら、三点しか援護できなかった。
三塁手だった山本操は、「何が何やらわからないうちに終わってしまった。」と話す。
結局、岡山東は三対十二の大差で負けた。
ナインは、人目を避けるように、夜行で帰岡した。

岡山東  100 020 000   3
高松一  007 400 10X   12

秋山登は、「球場全体を揺るがす歓声と一緒に、自分の体が浮き上がるような気がした。」と、回想する。
〚名門校へ。岡山東商〛
しかし、秋山、土井は、この日の屈辱をステップに、大学、プロ野球で大きく羽ばたいていく。

秋山 登さん

土井 淳さん

「いい経験になった。」と、口を揃える秋山、土井の二人。
また、初めて甲子園に出場したことにより、有望選手が次第に集まるようになり、やがて、四十年の選抜優勝に結び付いていく。

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つづく
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参考文献
「球譜一世紀」
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白球100年 岡山の野球 13 「甲子園の魔物 1」

〚魔物〛
大観衆を飲み込んだ甲子園のマンモススタンド。
一球ごとに地鳴りのような大歓声が沸き、銀傘にこだまする。さらに、郷土の期待を一身に背負う重圧。
「実際に甲子園の土を踏んだ者でないと、絶対にわからない。」
経験者は一様にそう話す。
さらに、独特の雰囲気が球児たちの平常心を奪う。
「こんなはずじゃない。」
相手チームだけでなく、「甲子園に住む魔物」にも敗れ、無念の涙を流した球児は数知れない。

〚岡山東商 秋山―土井〛
岡山東商から明治大、そして大洋まで、常に歩みをともにし、東京六大学では三度優勝。昭和35年には、大洋日本一の原動力となるなど、一時代を築いた名コンビである。
しかし、二人が初めて甲子園の舞台に立った昭和26年夏。
岡山東商の甲子園初陣は、まさに「甲子園に住む魔物」に飲み込まれた典型的なケースだった。

〚大正12年創部 岡山東商野球部〛
大正12年創部の岡山東商。
昭和26年夏、下手投げから抜群の球威で押すエース・秋山と、強肩・好リードの捕手・土井を中心に、悲願の甲子園初出場を果たす。
岡山東商の初戦は、怪童・中西太を軸とする打の高松一。
バッテリーを中心とした守りが持ち味の岡山東商。
練習試合では勝っており、自信を持って試合に臨んだ。――そのはずだった。

〚ところが――。〛
ナインの様子がおかしい。
土井は二塁への送球が届かない。
送球は横へそれる。
試合に入っても、ナインの硬さはほぐれない。
秋山は三者連続四球で無死満塁のピンチを招く。
ナインの足は地についていなかった。
そして、三回裏に悪夢が待ち受けていた。

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「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

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白球100年 岡山の野球 12 「初陣 倉敷工4強入り 3」

〚倉工野球の礎〛
「ひたすらに、フェアプレーで戦いました」

昭和二十四年、甲子園初出場でベスト4進出を決めた直後の、倉敷工・小沢馨主将の談話である。

この精神は、以後、倉工野球の礎となった。

〚名監督 涙の甲子園〛

母校の監督となり、名将、知将の名を欲しいままにした小沢馨が、監督として最後に甲子園へ出場したのは、昭和五十年春。

剛腕・兼光保明を擁し、優勝候補の呼び声が高かったが、2回戦で東海大相模に0対1で惜敗。この試合、高熱でふらふらになりながらも、歯を食いしばって投げ抜いた兼光の姿に、小沢は感涙しながら、「男の中の男」とたたえた。

希代の名監督が、甲子園で見せた涙。

号泣する小倉北・福島の涙に戸惑った、あの無欲の甲子園初出場から、四半世紀が過ぎていた。

〚指導者を輩出〛

昭和二十四年の大会は、後の岡山球界の指導者を多数輩出した点でも意義深い。

倉敷工、岡山東商の両校でコーチとして平松政次をはじめ、多くの選手を育てた妹尾求は、倉敷工の中軸打者として活躍した。

〚昭和二十四年夏、準々決勝〛

倉敷工    打 安 失

1 遊 林   6 1 1
2 右 渡辺  3 1 0
3 三 妹尾  4 2 0
4 中 横山  5 2 1
5 捕 藤沢  4 3 0
6 投 小沢  4 0 0
7 一 松浦  5 1 1
8 左 鳥越  5 0 0
9 二 池ヶ谷 5 2 0

本塁打 藤沢 2
三塁打 横山、渡辺

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白球100年 岡山の野球 11 「初陣 倉敷工4強入り 2」

昭和24年 夏 準々決勝

小倉北 020 102 001 0 6
倉敷工 010 102 110 1 7
(延長10回)

夢破れてうなだれる小倉北ナイン。

「自分は肘を痛めていて、投げられる状態ではなかったが、打線の力で、もしかしたら優勝も、と思っていた」と、小倉北・福島一雄投手。

〚甲子園の土〛

試合後の挨拶を交わした後、マウンドに戻ってスパイクシューズ袋に土を詰めた福島。

今では当たり前になっている「甲子園の土」を持ち帰る風習も、これが最初だった。

〚すまなかった〛

「キープマイペース」を唱えながら、終始冷静な投球を続けた倉敷工・小沢馨投手。

「終わってみたら勝っていた。あの時、相手に悪いことをしたと思った」

薄暗い通路で、肩を震わせ泣いていた福島に、帽子を脱いで「すまなかった」と頭を下げた小沢だった。

〚3本塁打〛

本大会通算3本塁打を放った倉敷工・藤沢新六捕手。

昭和60年にPL学園・清原に破られるまで大会記録を保持していた藤沢。

県大会でも柵越え本塁打など打ったことのなかった五番打者。

「思いっきり振っただけ。最初のホームランは、審判に言われて気がついたほど」

と【無欲の勝利】を強調する。

〚準決勝 対岐阜戦〛

1対3とリードされた四回。1点を返し、さらに無死満塁のところで突然の雨。

翌日、再試合となった。

宿舎に帰った倉敷工ナインは、風呂の中で、

「これなら勝てる。優勝できるかも」

とはしゃぎ立てた。

【欲が出た】

再試合では、強振を続ける打線は空回り。頼みの小沢は連投の疲れで肘が上がらない。球は走らず、2対5で敗れた。

昭和24年夏 準決勝(再試合)

岐 阜 130 100 000 5
倉敷工 002 000 000 2

敗戦を決めた無情の雨。

「あの雨さえ無かったら。今でも雨の日には思い出す」と、小沢は言う。

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参考文献
「球譜一世紀」
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おいまつ会

 

白球100年 岡山の野球 10 「初陣 倉敷工4強入り 1」

〚 小さな町のチームが 〛
戦争の爪痕が色濃く残る昭和24年。
感激の初陣を果たしたチーム、倉敷工業野球部。
岡山県勢初のベスト4。
まだイ草のにおいが漂う小さな町のチームが、大きく、確かな第一歩を大甲子園へ。
〚 無 欲 〛
実力以上の力を引き出す無欲。
先を見て、足元をすくわれる欲。
昭和24年夏。甲子園出場を果たした倉敷工ほど、微妙な勝負のあやを体験したチームはないだろう。
昭和16年に創部された倉敷工野球部は戦中廃部。22年に野球好きが集まって再結成されたばかり。
開会式で、他県の選手が「倉敷ってどこ? 東北? 九州?」。
戦前の活躍予想も、出場23校中22番目のありさま。
それでも、好投手・小沢馨の得意球、縦のカーブ(ドロップ)は、小気味よく捕手・藤沢新六のミットに吸い込まれた。打線も尻上がりに調子を上げ、熊谷(埼玉)、高津(大阪)と連破。八強まで進んだ。

「小さな大投手」と呼ばれた倉敷工の小沢馨投手 昭和24年9月

〚 勝てるわけがない 〛
8月17日。迎えた準々決勝。
相手は、中京商(愛知)以来の3連覇を目指す小倉北(福岡)。春夏通算16勝を挙げた好投手・福島一雄を擁し、洗練された野球を展開する強豪だった。
知名度は雲泥の差。スタンドを埋めたファンも、倉敷工の勝利よりも善戦を期待していた。
倉敷工ナインも、この日「勝てるわけがない」と荷物をまとめて宿舎を出発。負けたら道頓堀辺りを観光して帰るつもりだった。だが、この開き直りが幸運を呼び込む。

小倉北 020 102 001 0  6
倉敷工 010 102 110 1  7
(延長12回)

息詰まるシーソーゲーム。
倉敷工の守備の乱れに乗じて、重盗、スクイズと多彩な攻めで先手先手と攻める小倉北に対して、2回、6回の藤沢新六の2本の本塁打をはじめ、長打で食い下がる倉敷工。
9回、ついに福島投手を降板に追い込んだ。
延長10回、二死満塁から横山剛の遊ゴロの間に決勝点を挙げ、熱戦に終止符を打った。

倉敷工の健闘を報じる山陽新聞 昭和24年8月18日付

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つづく  随時掲載

参考文献 『球譜一世紀』
『灼熱の記憶』

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白球100年 岡山の野球 9 「祝 関西高甲子園初出場 4最終回」

〚 関西の甲子園初出場 〛
関西の甲子園初出場は、昭和23年8月13日。

全国の強豪に交じって更新する関西ナイン(左端) 昭和23年8月13日

開会式直後、関西はいきなり開幕試合に臨んだ。相手は、同じく初出場の石巻(宮城)だった。大応援団も開会式からアルプススタンドに陣取り、試合開始を待った。

〚 伝説の第一球 〛

プレーボールは午前10時20分。
先頭打者は、角南攻。
試合開始のサイレンが響く中、石巻・毛利投手の第1球。「絶対成功させる自信があった」というセーフティーバントを、三塁線へ鮮やかに転がした。
2番打者・吉田和之への第1球。さらに角南は、すかさず二盗。

県予選、東中国大会で見せた関西高が得意とした奇襲攻撃の成功に、ナインの緊張は一気にほぐれた。
この角南の第1球のセーフティーバントは、「角南の第1球」あるいは「角南のセーフティーバント」として、今なお語り継がれている。

〔関西-石巻〕4回表無死1、3塁から角南の3ゴロの間に3走の岡田生還(昭和23年8月13日)

関 西  310 300 200   9
石 巻  000 031 110   6

2回戦の相手は、天王寺(大阪)。
開催地・大阪代表だけに、大観衆は5万人を超え、バックネット裏まで天王寺の応援で埋まった。
「相手応援団の大歓声で、スタンドが揺れているようだった」と、エース吉田は振り返る。
エース吉田は、緊張からか球が走らず、初回に2点を奪われる。
華やかな天王寺高に対し、野武士軍団のような関西。2回に集中打で4点を奪い逆転した。
エース吉田は、持ち前の外角に落ちるカーブを武器に立ち直り、2回以降は無失点に抑え切った。
準々決勝では、大会ナンバーワン投手・福島一雄を擁する小倉北に、0対2で惜敗。しかし、初出場でベスト8。関西の快進撃は、予想をはるかに上回るものだった。
勢いに乗った関西は、秋の福岡国体でもベスト8入りを果たす。
無名だった岡山の名を全国に知らしめた関西の活躍は、戦後復興期の岡山球界にとって、願ってもない船出だったと言えよう。

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つづく

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」
毎日新聞
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協力
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白球100年 岡山の野球 8 「祝 関西高甲子園初出場 3」

〚倒れたエース〛
昭和二十三年夏 東中国大会決勝

関西  101 002 011|6
倉敷工 102 000 000|3

昭和二十三年の東中国大会決勝で、関西と優勝を争った倉敷工。そのエースが、翌年甲子園で活躍する小沢馨だった。

小柄ながら力投した小沢は、敗戦が決まり、ホームベースを挟んで整列したとき、関西ナイン一人一人と握手を交わし、「岡山の代表として頑張ってください。」と声を掛けた。

しかし、すでに疲労も限界を超えており、最後の選手と握手を交わしたところで、小沢はばったりとグラウンドに倒れ込んでしまった。

ひたむきに戦う姿と、勝負の後の爽やかさ。高校野球の素晴らしさを教えるエピソードでもある。

その後、小沢は関西ナインのためにと、自ら打撃投手を買って出たという。

〚初陣 関西高校〛

関西高校が甲子園の檜舞台に雄姿を見せたのは、昭和二十三年八月十三日、開会式直後の開幕試合であった。

相手は、同じく初出場の石巻(宮城)。汽車や船で駆け付けた大応援団も、開会式からアルプススタンドに陣取り、固唾をのんで試合開始を待った。試合が始まった。

そのとき、関西に――「伝説の第一球」が起こる。

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つづく(随時掲載)

参考文献:「球譜一世紀」「灼熱の記憶」
参考:毎日新聞、山陽新聞
協力:岡山県立倉敷工業高等学校 硬式野球部OB会 おいまつ会