白球100年 岡山の野球 16 「二刀流の倉工初代監督 2」

昭和21年10月。戦後初の国民体育大会が京都で開催された。同大会、軟式野球競技に出場した玉島モタエクラブ野球団は、快進撃を続け、決勝戦に進出した。ところが、ここで困ったことが起こる。

野球と陸上砲丸投げの競技開始時間が、午後1時で重なっていたのである。

京都、西京極野球場と西京極陸上競技場は、200mも離れていない。球場では、決勝戦前のシートノックが始まっていた。

野球のユニフォーム姿の三宅宅三は、スタンドを乗り越えて、陸上のフィールド内に入った。

玉島モタエクラブ主将の大野仁之助は、「三宅が帰ってくるまで、ダラダラと長くシートノックをしましてね」と語っている。

 

一方、三宅は審判長に、「連続で、3回投げさせてください」と頼んだ。3回投げた三宅は、一目散に球場へ。

三宅は、東京オリンピックが戦争で中止となった無念を、国体にぶつけたのだった。

千両役者が戻り、球場では約30分遅れのプレイボールがかかった。結果は岐阜県庁に敗れ、準優勝。しかし、堂々の国体準優勝である。

玉島モタエクラブ野球団。千年の古都に足跡を残す。

港町玉島の剛腕、威風堂々、大野仁之助。その盟友、豪傑、天下無双、三宅宅三。

国体伝説の豪傑が、さらに甲子園で旋風を吹かすことになる。

大野は、激戦地で散った友の思いを胸に投げ抜き、母校・玉島商の監督を経て、岡山県高校野球審判協会を設立する。

港町玉島に陸揚げされた一個の白球が、数奇なドラマを作っていく。

【三宅に運命の時が】

倉敷駅前で本屋を営んでいた三宅のところに、一人の人物が訪ねてきた。

【お願い】
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つづく 随時掲載

参考文献 「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参 考  毎日新聞
山陽新聞

協 力  倉工硬式野球部OB会
おいまつ会

白球100年 岡山の野球 15 「二刀流の倉工初代監督 1」

三宅宅三さん

三宅宅三。
倉敷工野球部初代監督。砲丸投げの名選手。

〚豪傑 三宅宅三〛
玉島商―明治大―倉工監督―プロ野球

「上から読んでも、下から読んでも、同じ名前は?」
実際にクイズ番組に出た問題である。
正解は、「みやけたくぞう」。

元・中日ドラゴンズ編成部顧問、三宅宅三。
「父親が、覚えやすいようにと付けた」が由来というが、ユニークなのは名前だけではない。
野球と陸上競技の二刀流で、二足のわらじを履き、国民体育大会ではダブル表彰台という離れ業をやってのけた男。
その後、倉敷工野球部監督となり、昭和24年夏の甲子園に出場。チームをベスト4へ導く。
さらに一転してプロ野球選手となり、その後は名物スカウトとして数々の逸話を残した、岡山県球界きっての豪傑である。

第1回国体の西京極陸上競技場スタンドでユニホームの上にコートをはおって出番を待つ三宅さん(昭和21年11月)

〚野球と砲丸投げ〛

野球を本格的に始めたのは、玉島商時代。
180cmを超える筋肉隆々の体格を生かし、投手兼主砲として活躍した。
砲丸投げでは、全国中学陸上選手権大会で優勝。三年後に開催予定だった第12回東京オリンピックを目指そうとした矢先、戦況悪化のため大会は中止となった。
目標を失い、明治大では第二の道として野球を選ぶことになる。

〚快進撃 玉島モタエクラブ〛

終戦後、倉敷駅前で書店を開業。
玉島商OBで結成した「玉島モタエクラブ」に所属し、4番打者として活躍した。
「当時は、硬式も軟式もやっていました。」
と振り返るのは、まとめ役の大野仁之助。
昭和21年11月、戦後初の第1回京都国体軟式野球大会で、玉島モタエクラブは快進撃を続けた。
決勝へ進出した玉島モタエクラブ。
ここで、困ったことが起こる。

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つづく  随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会