昭和21年10月。戦後初の国民体育大会が京都で開催された。同大会、軟式野球競技に出場した玉島モタエクラブ野球団は、快進撃を続け、決勝戦に進出した。ところが、ここで困ったことが起こる。
野球と陸上砲丸投げの競技開始時間が、午後1時で重なっていたのである。
京都、西京極野球場と西京極陸上競技場は、200mも離れていない。球場では、決勝戦前のシートノックが始まっていた。
野球のユニフォーム姿の三宅宅三は、スタンドを乗り越えて、陸上のフィールド内に入った。
玉島モタエクラブ主将の大野仁之助は、「三宅が帰ってくるまで、ダラダラと長くシートノックをしましてね」と語っている。
一方、三宅は審判長に、「連続で、3回投げさせてください」と頼んだ。3回投げた三宅は、一目散に球場へ。
三宅は、東京オリンピックが戦争で中止となった無念を、国体にぶつけたのだった。
千両役者が戻り、球場では約30分遅れのプレイボールがかかった。結果は岐阜県庁に敗れ、準優勝。しかし、堂々の国体準優勝である。
玉島モタエクラブ野球団。千年の古都に足跡を残す。
港町玉島の剛腕、威風堂々、大野仁之助。その盟友、豪傑、天下無双、三宅宅三。
国体伝説の豪傑が、さらに甲子園で旋風を吹かすことになる。
大野は、激戦地で散った友の思いを胸に投げ抜き、母校・玉島商の監督を経て、岡山県高校野球審判協会を設立する。
港町玉島に陸揚げされた一個の白球が、数奇なドラマを作っていく。
【三宅に運命の時が】
倉敷駅前で本屋を営んでいた三宅のところに、一人の人物が訪ねてきた。
【お願い】
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つづく 随時掲載
参考文献 「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」
参 考 毎日新聞
山陽新聞
協 力 倉工硬式野球部OB会
おいまつ会




