三宅宅三。
倉敷工野球部初代監督。砲丸投げの名選手。
〚豪傑 三宅宅三〛
玉島商―明治大―倉工監督―プロ野球
「上から読んでも、下から読んでも、同じ名前は?」
実際にクイズ番組に出た問題である。
正解は、「みやけたくぞう」。
元・中日ドラゴンズ編成部顧問、三宅宅三。
「父親が、覚えやすいようにと付けた」が由来というが、ユニークなのは名前だけではない。
野球と陸上競技の二刀流で、二足のわらじを履き、国民体育大会ではダブル表彰台という離れ業をやってのけた男。
その後、倉敷工野球部監督となり、昭和24年夏の甲子園に出場。チームをベスト4へ導く。
さらに一転してプロ野球選手となり、その後は名物スカウトとして数々の逸話を残した、岡山県球界きっての豪傑である。
〚野球と砲丸投げ〛
野球を本格的に始めたのは、玉島商時代。
180cmを超える筋肉隆々の体格を生かし、投手兼主砲として活躍した。
砲丸投げでは、全国中学陸上選手権大会で優勝。三年後に開催予定だった第12回東京オリンピックを目指そうとした矢先、戦況悪化のため大会は中止となった。
目標を失い、明治大では第二の道として野球を選ぶことになる。
〚快進撃 玉島モタエクラブ〛
終戦後、倉敷駅前で書店を開業。
玉島商OBで結成した「玉島モタエクラブ」に所属し、4番打者として活躍した。
「当時は、硬式も軟式もやっていました。」
と振り返るのは、まとめ役の大野仁之助。
昭和21年11月、戦後初の第1回京都国体軟式野球大会で、玉島モタエクラブは快進撃を続けた。
決勝へ進出した玉島モタエクラブ。
ここで、困ったことが起こる。
【お願い】
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つづく 随時掲載
参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」
参考
毎日新聞
山陽新聞
協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会

