白球100年 岡山の野球 18 「二刀流の倉工初代監督 4最終回」 

昭和24年夏。倉敷工の監督として、甲子園初出場し、ベスト4まで勝ち進んだ、三宅宅三倉敷工監督。

しみじみと語る三宅宅三倉工野球部初代監督。
元プロ野球選手。

写真左、三宅宅三監督。
右、エース小沢馨投手。

甲子園初出場の時の記念撮影。

〚ところが〛
甲子園出場のどさくさで、帳簿をきちんとつけるのを忘れ、帰ってみると、書店が税務署の調査を受け、罰金が課せられる羽目になっていた。
〚運命の時が来る〛
その直後、プロ野球毎日オリオンズが発足し、選手勧誘が来る。「罰金が、払える。」と、二つ返事で入団を決意した。

毎日オリオンズ入団決定。

28歳という、遅咲きのデビューながら、(6尺)男のパワーは、すごかった。
「陸上の砲丸投げで鍛えた、腰の回転が役立った。」と、三宅。
毎日オリオンズに在籍8年。【723試合出場】【547安打、通算打率2割6分2厘】【本塁打73】を、マークした。
【ビールが好きで】
「毎年、夏前までベストテンのいいとこにいたんですが、ビールが美味しい季節になると、成績が落ちましてね。」と、三宅。
「我々の頃は、だいたい35歳ぐらいが、選手のピークだったんですが。それで、酒が好きでね。よく飲んだんです。あの酒がなかったら、もしかしたら、もう少し選手生命も、長かったんじゃないかと、思うんですけどね。」
夕方から飲み始めて、朝方には部屋中ビール瓶で埋まっていたという。
〚スカウトでも手腕発揮〛
現役を退いた後も、スカウトで手腕を発揮する。
ロッテ時代は、落合博満を見いだす。
「走れない。守れない。と言われていたが、打撃に期待した。」と、一番手柄を振り返る。
また、台湾選手に、プロ入りの道をつけたのも三宅宅三だった。その中でも、季宗源をスカウトし、養子にまでして、入れ込んだのだった。
〚生まれ変わったら〛
「今度生まれ変わったら、陸上じゃなく野球、やっぱり野球をやりたいね。」
その目標を聞くと、「名プレーヤーになりたいです。」と語る、元倉工野球部三宅宅三監督。
〈たくさん〉の愛称で、人脈も広いが、国体の逸話だけは、伝説となりそうである。

【お願い】
当ホームページ内のカテゴリー、〚風雲の軌跡〛を参照してください。

つづく 随時掲載

参考文献
「球譜一世紀」
「灼熱の記憶」

参考
毎日新聞
山陽新聞

協力
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
おいまつ会