大願成就 己に勝つ野球 6

元倉敷工投手コーチOB永山勝利は、次のように言う。
「試合を見に行って3回で帰ったんです。とにかく、点を取られても悔しさがなく、ヒットを打たれても悔しさがないし集中力もないし。あるのは試合の喜びだけで。」
永山は、球史に残る名勝負に散った負傷のエースの代役投手。
(当HP。カテゴリーの中、昭和36年のドラマを参照して下さい。)
永山は、何年経っても野球に熱いOBである。

【1点の持つ怖さを知れ当HPより】
平成15年3月。日本高校野球連盟は、対外試合を解禁。
倉敷工の練習試合の相手は全く事を欠かない。夏の予選まで予定がびっしりである。いや、チームによっては2年先まで予定が決まっているという。この練習試合において部長中山隆幸、監督和泉利典のコンビは、今までなかった事をチームそして選手に要求した。
まず、無死1、2塁のケースを無理やり作ってそこから真剣勝負をすること。
投手は、四球を出してランナー二人を背負うのである。
打者は、2ストライクまで待って「2ストライクから打て」と。
苦しい場面から力を発揮させること。また、苦しい場面からいかに力を発揮できるかということ。そして、メンタル面の強化も図ったのだった。
打者は、「2ストライクまで待て」とは、どういうことか。私が考えるのは、それは、ファーストストライクは、センターに打ち返すためのタイミングを取る練習をする。セカンドストライクは、右打者ならセンターから右方向に打ち返すためのタイミングを取る練習をする。そして、「サードストライクを打て」と。一球一打に賭ける倉工打線。
こういうことではなかろうか。
二人のコンビは、練習試合でこうした苦しい場面を作って強化していったのだった。「甲子園で、勝てるチーム作りをしました。強いチームと練習試合をする事が大事ですが、少し弱いチームとすることも大事なんです。」と監督和泉利典。和泉にとって、「このチームで絶対に甲子園に行くんだ。行かなくてはならない。」と。まさに、背水の陣で望んだ
平成15年の夏だった。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい

参考
山陽新聞
毎日新聞
(当時の、新聞記事を参考にして、一部を引用しています)

協力
小山 稔氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
神土秀樹氏「元倉敷工業高校野球部コーチ」
和泉利典氏「元倉敷工業高校野球部監督」
中山隆幸氏「前倉敷工業高校野球部部長監督」