熱闘甲子園 今昔物語 25 栄光の足跡 13

第50回全国高校野球選手権大会(昭和43年夏)
【概要】
1968年8月9日~8月22日
優勝 興国(大阪)、準優勝 静岡商(静岡)

球史半世紀を祝う記念大会。開会式に、皇太子ご夫妻(当時)を招いた。
地方大会出場は、2485校。45都府県から各1校。北海道は南北から各1校。それに、沖縄から1校を加え48代表が、甲子園に集った。
折からの沖縄返還問題とからんで、一大人気を呼ぶ。
50回大会記念の記録映画「青春」が、市川崑監督のもとで制作された。この「青春」に、倉敷工から小山稔と岡本良二が出ている。

【はじめに】
昭和42年2月、新しい倉敷市が生まれた。以後、倉敷は工業都市として未曾有の発展を遂げ、また観光都市としても全国にその名を知られる。
昭和43年春の選抜ベスト4。その快進撃は倉敷の街に満ち溢れるエネルギーと歩を合わせるかの様だった。
そして、昭和43年夏。倉敷工は4季連続(42年春夏、43年春夏)甲子園出場を果たす。倉工アルプススタンドには「議会議員団」倉敷の伝統「素隠居」や何本もの「のぼり旗」を持った大応援団が詰めかけた。そして、倉工応援名物「桃太郎」が大甲子園に響き渡る。吹奏楽が「桃太郎さん桃太郎さん」、続いて応援団が【オウ】「お腰に付けたキビ団子」【オウ】「一つ私に」【クラコウ】(3アウトになるまで、繰り返す)。この桃太郎の応援が相手校を圧倒する。

倉敷工5―1享栄(1回戦)
享 栄 000 000 100 1
倉敷工 040 001 00X 5

倉敷工投手小山
本塁打

開会式直後の開幕試合。始球式の時、帽子を取りマウンドの横に立つ倉工エース小山稔。
倉工は二塁打2、三塁打1を含む9安打。さらに盗塁4を決め、機動力も絡ませ快勝。享栄は、小山から9安打したものの残塁が10。要所で締めた小山の投球が光る。
水島コンビナートでは、連日フル操業。白壁の街に満ち溢れるエネルギーと合わせ、大応援団と共に倉工の快進撃が始まった。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会