熱闘甲子園 今昔物語 28 栄光の足跡 16

第50回全国高校野球選手権大会(昭和43年夏)

【概要】
1968年8月9日~8月22日
優勝興国(大阪)準優勝静岡商(静岡)

【はじめに】
準決勝。対静岡商戦の朝だった。顔を洗おうと手に水を汲んだ小山稔。ところが、肩が痛くて手が上がらない。そこで、顔を手に近づけて洗ったのだった。手に持った歯ブラシさえも、口まで上がらない。甲子園球場近くのグランドで練習の時だった。
「とにかく、10メートル先さえボールが投げられなかったんです。肩やひじが痛くて。」と小山。
(母に誓ったプロ野球選手。少年の日の夢)小山は、絶望の中を、球場入りする。グランドに足を踏み入れた小山。倉敷から駆け付けた大応援団に、小山は勇気をもらった事だろう。
しかし、そんな小山を真に支えるものがあった。小山を真に支えるもの。それは、胸にKURASHIKI。背中には倉工のエースナンバー1。このエース№1をつけた小山のユニホームこそが、真に支えるものだったのである。
小山は次のように言う。
「倉工のエースというものは、序盤にどんなに打たれても、最後までマウンドを守り切るのが、エースというもの。また、どんなに肩やひじが痛くても最後まで、投げ切るのが、エースというもの。それが、倉工エースの宿命ですね。それを、途中で止めるようでは、倉工のエースは務まりませんね。」

静岡商2―0倉敷工(準決勝)
倉敷工 000 000 000 0
静岡商 011 000 00X 2
倉敷工投手 小山
本塁打

倉工は、静岡商得意のバント戦法に苦杯をなめた。静岡商は二回、一死から松島がレフト前打。戸塚もセンター左へ安打。俊足の松島一気に三進した。寺門は2-1からスクイズで1点。
三回は、新浦四球。青木の投ゴロで二封。青木、二盗。
佐藤は1-2から倉工の深い守備の裏をかいてドラックバントの内野安打で一三塁。藤波1-1から外角高めのウエストされた球を飛び上がって、スクイズを成功させる。
(倉工、小山―藤川)
のバッテリーはスクイズに来ると読んで外したのだが、藤浪(後に中日入り)の執念にしてやられた。ここらあたりに高校野球のバントの重要性を見せつけられたといっていいだろう。
倉工は、七回。この回小山四球。中村の、ライト線二塁打で、無死二三塁。ここで、思いもよらぬ不運が生じる。
富永の打球は、一二塁間を抜いたと、思われたが、二塁手青木が、横っ飛びで、ショートバウンドをダイビングキャッチ。
富永一塁でアウト。この時、三塁走者小山は、ホームに突っ込みかけたが、三塁コーチャー角野の指示で、三塁へ戻った。これを見た一塁手小泉は、三塁へ転送。小山は三本間で、挟殺された。まずい走塁ではあったが、ここは二塁手青木の好プレーを讃えるべきであろう。
結局、倉工は好機に一発が出ず惜敗したが、速球左腕の新浦(後に、巨人入り)に対して、バットを短く持ったミート打法。そして、肩やひじが痛い小山の、最後までの、力投が強く印象に残った試合だった。
この日、倉敷が泣いた。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会