熱闘甲子園 今昔物語 32 栄光の足跡 20

46回選抜高校野球大会(昭和49年選抜)

【概要】
1974
326日~46日出場30チーム
入場曲「草原の輝き」
優勝報徳学園(兵庫) 準優勝 池田(徳島)

【はじめに】
中国地区から、倉敷工、岡山東商、境の3校が出場。
倉敷工監督小沢馨と岡山東商監督向井正剛が見つめる中、倉敷工の純白のユニホームと、岡山東商の白桃色のユニホームが、甲子園球場を並んで行進。
まさに壮観。だが、それは岡山県高校球界が、群雄割拠の時代へと突入する「始まり」となるのである。

向井正剛。
監督として、春夏通算甲子園出場八回(部長として二回)優勝一回、ベスト4一回、この他国体優勝一回。

小沢 馨
同十五回、ベスト4三回、ベスト8二回、二人抜きには、戦後の県高校球界を語れない名監督だ。

ある年の、甲子園開会式のリハーサル中に、大会役員が全選手にこう言った。「岡山東商の行進を見習え。」
あくまでも投手を含めた守りの野球を基本とし、マナー、精神面を重視した向井。心憎いばかりの人心掌握術でナインの心を一つにした。
昭和40年選抜、岡山東商優勝。岡山県勢唯一の甲子園優勝。この時の、試合直後の向井の談話が残っている。「この世の中に、人の和の大切さを、改めて知った。」

一方、向井の事を小沢は、次の様に話す。
「本当に、指導者として、教育者として我々にはない、例えば、礼儀作法一つにしても、マナー一つにしても非情に信念をもって、子どもの末端までにも行き届いた指導をしていかれる点に、頭が下がりました。」

厳しさに耐えた選手たちは戦い抜き、向井監督の期待に見事に答えた岡山東商ナイン。そして、今でも語り継がれる岡山東商の伝統。それは『野球もマナーも日本一』
両雄が去って何年になるのだろうか。人々は言う「小沢は勝負師で、向井は教育者」と。
向井はこの年(昭和49)県教委に転勤が決まり(当時の)文部省、JOCW杯招致委員会を経て、仙台大学学長へと進む。
倉敷工は初戦磐城と対戦した。

つづく
随時掲載

お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。

参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」

山陽新聞「灼熱の記憶」
()現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
()現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。

協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)

中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会