第46回選抜高校野球大会(昭和49年選抜)
【概要】
1974年3月26日~4月6日出場30チーム
入場曲「草原の輝き」
優勝報徳学園(兵庫)準優勝池田(徳島)
一回戦倉敷工4-1磐城
二回戦倉敷工3―1滝川
準々決勝池田2―1倉敷工(延長12回)
【おわりに】
第46回選抜で、ベスト8の倉敷工。
「夏は、それ以上を。」と、倉敷市民は期待した。
こうした中、小沢監督、小山投手コーチは、ある決断を行う。
「居郷は、ドラフト指名を受けるかもしれない。投手としては、プロでは無理だろう。打撃を生かすために、内野手で行かせたい。夏、勝つためには、居郷では勝てない。
その代わり、打撃投手をしていた、小林の球威が出て来たので、この夏は、小林と兼光(2年生)で行こう。」と。
一年夏からベンチ入りを果たしていた大倉は「小林さんの球は、球威が増して、誰も打てなくなったんです。」
こうして、新しく倉工エース小林が誕生したのだった。
夏の県予選を前に、エース土屋を擁する銚子商が倉敷にやって来た。三塁に篠塚(巨人)がいた。倉敷市営球場。
結果は、倉工が2対1で勝つ。その2点を叩き出したのが居郷だった。(銚子商は、この年の夏、甲子園優勝する)
小沢監督は、確かな手答えを感じた。
打撃投手だった、小林をエースに夏の県予選を勝ち上がり東中国大会(倉吉市野球場)決勝に進出した倉敷工。
あと、1勝で甲子園。決勝の相手は、玉島商。
ところが、右下手投げの守安投手を打てず、0対1で負け甲子園出場を絶たれてしまう。
【居郷肇その後】
ここで、その後の居郷肇について紹介しておきたい。
法政大に進学。一年先輩に、江川卓(作新学院)佃正樹(広島商)がいた。内野手に転向。4年生の時、主将を務める。
同年春季リーグ、立教大戦で、東京六大学野球史上初のサイクルヒットを達成。リーグ戦42試合に出場。
ベストナイン2回。社会人野球プリンスホテルの1期生として入団。(2000年廃部)2011年プロ野球埼玉西武ライオンズ球団代表取締役社長及び球団オーナー代行に就任する。
2022年1月15日付、球団社長を退任する。
【ちなみに】
倉敷工から、東京六大学に進学し、実際に神宮球場でプレーできたのは、13人である。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会