第47回選抜高校野球大会(昭和50年選抜)
【概要】
1975年3月28日~4月6日出場29チーム
入場曲「おかあさん」
優勝 高知(高知)
準優勝 東海大相模(神奈川)
【はじめに】
母校、倉敷工の監督になって、四半世紀が過ぎた春。小沢は今までにない大型チームを作り上げる。そのチームはナインの心が一つになると、恐ろしいほどの強さを発揮する個性派集団。当然、倉敷市民は「今度こそ優勝を。」と沸き立ち、甲子園へ送り出す。
迎えた昭和50年春の選抜。そして、名将小沢監督忘れ得ぬ最後の甲子園。
倉工のエース兼光保明。防御率0点台として驚くべき成績で、甲子園に乗り込む。剛球右腕兼光保明。しかし、兼光は、大会前の発熱とそれを抑えようとした副作用で、意識もままならず、茫然とした状態で中京打線の餌食となる。球史に残る打撃戦。試合は、凄まじい打ち合い。
16対15。ギリギリで踏み止まった勝利だった。
チームは何とか逃げ切ったが、兼光は(11点リードするが)中京打線にノックアウトされ降板。兼光の高熱は下がらず試合の記憶すら定かでないという。
兼光は、次のように話す。
「熱があったのは、あの時だけで。まるで、ドラマを見ているようで。現実にあるのかなあと。それが、甲子園の魔力と言えばそれまでですが。本当に信じられない事が起こりましたね。野球をやってて、あんなに恐ろしい環境におかれたのは初めてでした。」
倉敷工16―15中京(開会式直後の開幕ゲーム)
倉敷工 005 801 011 16
中 京 101 450 310 15
倉敷工投手 兼光―塚岡
本塁打 野田 石原
15対15で迎えた9回表。ナインの中で一人だけノーヒット(3打席)だった3番樋口を小沢監督はベンチに呼んだ。「初めての打席と思って行け。」すると、樋口の打球はライナーでレフトの頭上を越え、16点めが入った。兼光をリリーフした塚岡(新2年生)。
9回裏を0点に抑える。最後の勝負球は、内角高めで空振りを奪って試合終了。終わってみれば倉工15安打、本塁打2、三塁打1、二塁打5。一方、中京は14安打、本塁打1、三塁打2、二塁打1、だった。
次の2回戦は、優勝候補、原、津末がいる強打の東海大相模だった。
つづく
随時掲載
お願い
本文に迫力を持たせるため、敬称は略させて頂きます事をご了承下さい。
参考
朝日新聞「バーチャル高校野球」
山陽新聞「灼熱の記憶」
(注)現在、「灼熱の記憶」は、ありません。
瀬戸内海放送「夢フィールド」
(注)現在、「夢フィールド」の放送は、ありません。
協力
和泉利典(元、倉敷工業高校野球部監督)
中山隆幸(元、倉敷工業高校野球部部長監督)
岡山県立倉敷工業高等学校硬式野球部OB会
岡山県立倉敷工業高等学校おいまつ会